企画展「振り返ろう懐かしの千里万博の時代」千里ニュータウンを訪れる〜その29 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。1970(昭和45)年開催の「大阪万博」で活躍した、万博を巡る千里の鉄道を中心にした交通機関についての企画展「振り返ろう懐かしの千里万博の時代」訪問記をお送りしています。



今回の企画展展示の主題、千里丘陵で開催された先の「大阪万博」会場に直結していた「北大阪急行電鉄(北急)〜地下鉄(現在のOsakaMetro)御堂筋線」ルートについて、会場の南千里をいったん離れて項を進めています。


会期中に約2000万人以上を運んだという、このメインルート。企画展での写真展示とともに、新大阪駅から実際にこの万博会場へのルートを辿り、引き続きあれこれと掘り下げてみようと思います。出典①。



さて、一日平均30万人以上もの観客を輸送すべく、万博会期中のみ存在した「北急会場線」。


現在の「千里中央駅(大阪府豊中市)」手前の地下線から分岐、真東に方向を変えて「万国博中央口駅(同吹田市)」に進んでいた、というところまで述べて参りました。グーグル地図より。



地下線内の仮設分岐から分かれ、万博会期中にはなかった「大阪モノレール千里中央駅(同)」や「中国自動車道(中国道)」、「府道大阪中央環状線(中環)」に並行し、地上へ出たところで「千里中央駅」に到着。


ところで、この「仮・千里中央駅」の場所は具体的にどのあたりにあったのか。


それは現在の千里中央の駅と、駅に直結している商業施設から見ると真反対。やはり万博開幕に合わせて開業した老舗ホテル「千里阪急ホテル」の南東あたりだったといいます。



仮駅の写真を確認しますと、駅舎へは本線路や中国道、中環をまたぐ陸橋から階段でアプローチするものだったことがわかります。

プラットフォームは改札を入って階段を降り、再び陸橋をくぐった左右にありました。


これは北側から「千里ニュータウン」方向を向いたものでしたが、背景には鬱蒼とした竹林。




万博会期中、ニュータウンは街開き(1962年、昭和37年)から7、8年経過した頃。人が集う千里中央付近もまだまだ、開発途上の頃だったのですね。千里中央駅付近、展示より。



ところで、仮駅に架かるこの陸橋は現在も残っています。「北新田橋」という橋です。


観察してみますと、南北に架かる橋の左側(西側)が途中から欠け、そこから南側は幅が狭くなっていることがわかりますこれが「仮・千里中央駅」へ階段で出入りするための痕跡だそうです。



これですね。欠けているのが橋の右端ですので万博会場は向かって左側(東方向)。現在の「千里中央駅」側から撮られたものだとわかりました。


北を下にした位置関係はこのようになりましょうか。半世紀以上にわたり、当時の様子を残し続けている訳で、このようなものを発見するのは、まさに目からウロコです。



借用していた中国道の下り線を東方向(「万国博中央口駅」方向)へさらに進みますと、次なる見どころのひとつ、阪急千里線との立体交差に差し掛かります。

万博における鉄道輸送を語る上で、欠かせない「出会い」があった場所です。出典②。


今回の企画展展示でも、大々的に取り上げられていたものでした。

次回に続きます。

今日はこんなところです。


(出典①「鉄道伝説 大阪万博波動輸送〜2200万人の輸送を成功させよ〜」BSフジ 2014年2月2日放送)

(出典② 朝日大阪朝刊 2023年9月10日付け19面 大阪東部・河内地域面)