みなさんこんにちは。前回からの続きです。1970(昭和45)年開催の「大阪万博」で活躍した、万博を巡る千里の鉄道を中心にした交通機関についての企画展「振り返ろう懐かしの千里万博の時代」訪問記をお送りしています。
今回の企画展展示の主題、千里丘陵で開催された先の「大阪万博」会場に直結していた「北大阪急行電鉄(北急)〜地下鉄(現在のOsakaMetro)御堂筋線」ルートについて、会場の南千里をいったん離れて項を進めています。
朝日大阪朝刊 2023(令和5)年9月10日付け 19面(大阪東部・河内地域面)より。
会期中に約2000万人以上を運んだというメインルートでしたが、企画展展示のショットとともに、新大阪駅から実際にこの万博会場へのルートを辿り、引き続きあれこれと掘り下げてみようと思います。グーグル地図より。
「新大阪駅(大阪市淀川区)」から乗り込んだ「千里中央ゆき(大阪府豊中市)」。
朝のラッシュですが、大阪都心とは反対方向に向かっています。「千里ニュータウン」の中央付近に当たる「桃山台駅(同)」を発車。

両隣は相変わらず「新御堂筋」ですが、このあたりに差し掛かって「池田 茨木 箕面」などの地名が案内板に見られるようになります。
池田、茨木は「府道大阪中央環状線(中環)」の沿道。それに並走する「中国自動車道(中国道)」とのジャンクションが近づいて来たのですが、終点の千里中央はその北側に駅が設けられています。

沿線には、ニュータウンの高いマンションが目立つようになります。
ここで列車は、徐々に高度を下げて行きます。

その先で、地上区間から地下線路へと進入。
航空写真より。大阪市内からずっと並走していた新御堂筋はそのまま北上し、先ほど触れた「中環」との「千里インターチェンジ(実質的にはジャンクション)」に至ります。
「中国道」は直交するのみで、この地点にはインターチェンジはありません。

さて、列車は地下線に入りました。
新御堂筋から離れた後、その東側にある商業施設と一体化した地点に駅を作ったため割と急なカーブが連続するのですが、ここは、右手に取ったそのカーブを曲がり切ったところ。
車両側の柱で見えにくいのですが、複線トンネルの右隣(東側)に、もうひとつ複線トンネルの駆体が別れて行くではないですか。
ちらっとだけですのであまり観察出来ないのですが、右に別れるトンネル駆体の、地盤にはレールやバラスト(道床砂利)、枕木などの類はまったく見当たりません。
不思議なトンネルですが、実はこれが、先の大阪万博で北急が担った大輸送の歴史を現在に遺すものなのでした。
新大阪からわずか15分ほどで、終着駅の「千里中央(同)」に到着。ただし、まだ先に線路が続いています。これも気になるところですが。
次回に続きます。
今日はこんなところです。