開業100周年を迎えた「近鉄生駒線・旧東信貴鋼索線」を巡り信貴山へ その32 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。

今年5月で開業から100周年を迎えた「近鉄生駒線・旧東信貴鋼索線」。


大阪・奈良府県境を成し、古くから霊峰として崇められていた「信貴山(しぎさん)」へ向かった鉄道網にまつわる歴史に触れるべく、現地を巡った訪問記、続編をお送りします。




このシリーズもいよいよ佳境に入りました。
信貴山を「西信貴鋼索線」で西へと下山するルートをたどり「信貴山口駅(大阪府八尾市)」に到着しました。閑静な駅です。


広大な大阪平野の東端に当たるこのあたり。
駅前には、信貴山を含む生駒山系に点在するという、史跡の案内図がありました。


古墳群、山城の跡と、ハイキングコースの出発地としても知られているようです。それでは…


この「信貴山口駅」については手元の、
「各駅停車全国歴史散歩28 大阪府(大谷晃一著・河出書房新社刊 昭和55年1月発行)」より拾ってみることにします。


幻の城高安城
信貴山口・高安山

眠りからさめた幻の城
 近鉄信貴線の終点の信貴山口駅を降りると、高安山がある。山へは、ケーブルカーが接続し7分ほどで山上駅だ。(中略)
ハイキングやドライブに身近な山として親しまれている高安山だが、そこには貴重な古代の遺構、高安城跡がある。高安城は1300年前、唐・新羅の侵略を防ぐ砦として、大和朝廷によって築かれた。(中略)


高安城の歴史的背景
この山城の果たした役割は何であったのか。
日本は、大化改新(645)以降、中央集権国家の建設を進めていたが、一方、朝鮮でも新羅を中心に統一国家づくりが進んでいた。



新羅によって滅亡の危機に瀕した百済は、日本に援助を求めきた。朝鮮半島への関心の深い日本は百済に加担する。しかし天智2(663)年、朝鮮半島の白村江の戦いで新羅・唐の連合軍に敗退した。敵の報復を恐れた大和朝廷は、各地へ次々と城をかまえた。



九州の筑紫に大野城(福岡県)、基肄城(きいじょう、福岡・佐賀県境)、長門に長門城(山口県)、四国の讃岐に屋島城(香川県)、対馬に金田城(長崎県)、そして大和(奈良県)と河内(大阪府東部)の間に高安城を築いたのである。高安城は、そのうち最も大和に近い最後の防壁とされた。


のちに日本と新羅、唐の関係が好転するに及んで城は廃止になった。667年から701年の34年間しか存在しなかった高安城であった。(後略)


なんとも、壮大な歴史の中心にこの信貴山と、山上の「高安城」があったことに驚きます。


確かに、遠く朝鮮半島から離れているとはいえと、この信貴山を越えるともう「大和国」。


当時は、中央政権が拠点にしていた地ですから、信貴山は「自然の要塞」として、地理的にも「最後の砦」になっていたのかも知れません。歴史というのは、実に深いものです。出典①・②。


そのようなことを考えていましたら、次発のケーブルカーがすでにプラットフォームで発車待ちをしていました。


山を下って来た、朱色の車両と対象的な青色の車両。「しょううん(勝運)」という愛称が付けられています。もちろん「信貴山朝護孫子寺」にまつわるキーワードです。


ちなみに、山下りに乗車した朱色のそれは「ずいうん(瑞雲)」でした。


さて、その「西信貴鋼索線」とこの駅で接続しているのは「信貴線」。
乗り換え案内には相当に広範囲な行き先が記されてはいますが、実際には2駅先の「河内山本駅(同)」とを結ぶ、短い支線です。



次回に続きます。
今日はこんなところです。

(出典①「新詳日本史図説」浜島書店編著 1991年11月発行)
(出典②「図説日本史通覧」黒田日出男監修・帝国書院編集 2015年2月発行)