みなさんこんにちは。前回からの続きです。
今年5月で開業から100周年を迎えた「近鉄生駒線・旧東信貴鋼索線」。
大阪・奈良府県境を成し、古くから霊峰として崇められていた「信貴山(しぎさん)」へ向かった鉄道網にまつわる歴史に触れるべく、現地を巡った訪問記、続編をお送りします。

このシリーズもいよいよ佳境に入りました。
信貴山を「西信貴鋼索線」で西へと下山するルートをたどり「信貴山口駅(大阪府八尾市)」に到着しました。閑静な駅です。
古墳群、山城の跡と、ハイキングコースの出発地としても知られているようです。それでは…
この「信貴山口駅」については手元の、
「各駅停車全国歴史散歩28 大阪府(大谷晃一著・河出書房新社刊 昭和55年1月発行)」より拾ってみることにします。
幻の城高安城
信貴山口・高安山
眠りからさめた幻の城
近鉄信貴線の終点の信貴山口駅を降りると、高安山がある。山へは、ケーブルカーが接続し7分ほどで山上駅だ。(中略)
ハイキングやドライブに身近な山として親しまれている高安山だが、そこには貴重な古代の遺構、高安城跡がある。高安城は1300年前、唐・新羅の侵略を防ぐ砦として、大和朝廷によって築かれた。(中略)
高安城の歴史的背景
この山城の果たした役割は何であったのか。
日本は、大化改新(645)以降、中央集権国家の建設を進めていたが、一方、朝鮮でも新羅を中心に統一国家づくりが進んでいた。
新羅によって滅亡の危機に瀕した百済は、日本に援助を求めきた。朝鮮半島への関心の深い日本は百済に加担する。しかし天智2(663)年、朝鮮半島の白村江の戦いで新羅・唐の連合軍に敗退した。敵の報復を恐れた大和朝廷は、各地へ次々と城をかまえた。
九州の筑紫に大野城(福岡県)、基肄城(きいじょう、福岡・佐賀県境)、長門に長門城(山口県)、四国の讃岐に屋島城(香川県)、対馬に金田城(長崎県)、そして大和(奈良県)と河内(大阪府東部)の間に高安城を築いたのである。高安城は、そのうち最も大和に近い最後の防壁とされた。
のちに日本と新羅、唐の関係が好転するに及んで城は廃止になった。667年から701年の34年間しか存在しなかった高安城であった。(後略)
(出典①「新詳日本史図説」浜島書店編著 1991年11月発行)
(出典②「図説日本史通覧」黒田日出男監修・帝国書院編集 2015年2月発行)