遠出の旅再開!四国・香川ことでん沿線を高松ひとり旅〜その29 志度線で名勝・屋島を初訪問!⑩ | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。

昨秋11月、急遽頂いた連休に思い立ち、お四国の香川・高松へ「ことでん(高松琴平電気鉄道)」の沿線を巡った、久しぶりの遠出ひとり旅の様子をお送りしています。


ここは、高松郊外の屋島山上。
小高い山からの眺めは、実に最高です。

離島があまたある、美しい瀬戸内海もさることながら、内陸に当たる讃岐平野にも、興味深い景色が広がります。


比較的、起伏が少ないと言われる高松周辺ですが、高松駅や高松港の近くには、緑が鮮やかな
山々が見られます。どのあたりかというと…


グーグル地図より。
美しい日本庭園が有名な「栗林公園(りつりんこうえん)」と、それに控える山々でした。

以前に訪問したことが確かありますが、このような地形だったとは気づきませんでした。 


ところで、その「栗林公園」の背景にある、こんもりとした形が美しい山。
「紫雲山(しうんざん)」と言う、標高200mほどの小高い山だそうですが、この山の名前を耳にして、ふと思い出したことがあります。


瀬戸大橋が開業する以前は、宇野(岡山県玉野市)と高松の間に「宇高連絡船(うこうれんらくせん)」という、鉄道連絡船が長らく航行されていました。出典①。



「宇高連絡船」は宇野、高松間を1時間ほどかけて、瀬戸内海を南北に結んでいた航路です。

航行していた船舶には、四国や瀬戸内海にまつわる名称が与えられ、瀬戸大橋の開業(昭和63年3月)まで、本州と四国とを結ぶ重要な交通機関として活況を呈していました。上から「讃岐丸」「阿波丸」。出典②。


手元にあった、1964(昭和39)年10月号の時刻表を開いてみますと…


本州方面からは、岡山を経て「宇野線」に多数の優等列車が、深夜や早朝問わず直通運転されていました。
それに合わせて、連絡船も終夜にわたり運航。


連絡船で高松に到着しますと、さらにそれに接続する形で、松山・高知・徳島方面などへと、四国全土に向かって、長距離列車が旅行客を請け負っていました。



本州側の宇野で接続する列車には、東京方面へ直通するものもあり、四国へ渡るのには、まさにここがメインルートであったことが窺い知れます。

しかし、そんな中でも悲惨な海運事故がありました。この山の名を冠した、宇高航路に充当されていた「紫雲丸」が沈没するという、いわゆる「紫雲丸事故」です。以下、出典②。

1955年(昭和30年)5月11日午前6時56分、上り第8便で運航中、同じ宇高連絡船・下り153便大型貨車運航船「第三宇高丸」と衝突して沈没。最大の被害を出した事故であり、国鉄戦後五大事故の1つでもある。

修学旅行中の広島県豊田郡木江町立南小学校(現・豊田郡大崎上島町立木江小学校)の児童などを中心に死者168名を出した。


引揚げ後修復、改造工事を受けたのを機会に1955年(昭和30年)10月11日を以って瀬戸丸と改称した。この工事中に外舷色を黒から黄緑に変更し、11月16日再就航した。

伊予丸就航から約1ヵ月、土佐丸が竣工した1966年(昭和41年)3月30日で終航となった。 また、事故をきっかけにして本州四国連絡橋の構想が具体化した。ここまで出典①。


穏やかで、美しい島影の瀬戸内海。
そんな中で多数の乗客、なかんずく、体力の乏しいであろう小学生が多数犠牲になったという事実を知ると、胸がつぶれる思いがします。


こちらの展望台で「紫雲山」の名前を確かめた時、その惨事の史実を思い出した次第です。

事故から70年近くが経ちますが、犠牲になられた方々の御霊の安らかなりと祈るばかりです。


(出典①「国鉄監修 交通公社の時刻表」1964年10月号)

(出典②「フリー百科事典Wikipedia #宇高連絡船 #紫雲丸事故 #紫雲丸」)


次回に続きます。

今日はこんなところです。