みなさんこんにちは。
前回からの続きです。
府南部、和泉市(いずみし)の「弥生文化博物館」で、今年3月まで開催されていた「泉州を貫く軌跡 阪和電鉄全通90周年」という特別展の訪問記を、引き続いてお送りしています。
シリーズのまとめに入っております。
現在の「JR阪和線」の前身「阪和電気鉄道」。
1929(昭和4)年に開業、翌年の大阪・和歌山間の全通を経て、当時としては破格の高性能電車による、大阪・和歌山間のノンストップ45分運転を実現するなど、戦前私鉄の中でも、大きな存在感を示していました。路線図内、R。
しかし、戦争に進む時局に翻弄され、経営難も重なり、1940(昭和15)年には開業以来のライバル「南海鉄道(現在の南海電車)」が吸収合併。さらに1944(昭和19)年には、国が南海から強制的な買収を行い「国鉄阪和線」となるなど、次々に経営主体が変わって行った…という経緯を、前回まで述べて参りました。
ここからは、戦後に入った「国鉄阪和線」の変遷について、引き続き展示から拾って行きたいと思います。歴代の車両が模型で勢ぞろい。
「阪和線」が国有化された後に目立った点としては、やはり「国鉄」の一路線となったことから、戦前から南紀白浜方面へ盛んに直通運転が行われていた「紀勢西線(現在のJR紀勢本線)」とのダイヤ調整が容易になったことが挙げられるでしょうか。出典①。
世の中が落ち着きを取り戻すに連れ、大阪発着の優等列車が数多く運行されるようになるとともに、貨物輸送(名産の紀州みかんなど)も、国鉄という巨大ネットワークを駆使して、全国へ拡大することになったことがその効果です。
「紀勢本線全線開通(昭和34年)」に合わせて全線を走破する、新型ディーゼル特急「くろしお号」が運転開始。
「天王寺〜名古屋間」を、紀伊半島をぐるりと周回する形で運行され、大変な人気を博したといいます。
その後、新宮までの電化(昭和53年)で、振り子式電車「381系」が登場。長年、南紀へ向かう看板列車として活躍を続けます。
前回の記事でも触れましたが、かつての阪和の車両は、国有化された後に導入された車両に比しても、大変な高性能さを誇っていました。
国鉄の他線区から移籍して来た車両に対し、これらは「阪和社形車両(社形)」と呼ばれ、そのハイスペックさから国鉄の一員となった後、昭和40年代まで、第一線で活躍を続けました。
国鉄形車両と比べて、その車両デザインでも差異は一目瞭然です。
国鉄に引き継がれた後、阪和が製造した一部の車両は、その高性能さから地方私鉄へ譲渡される例がありました。
そのひとつが、岩手県の「松尾鉱山鉄道」。


シーズンには、仙台や盛岡から国鉄の臨時列車が運行されるほどだったのですが、急勾配が連続する沿線なため、阪和が製造した強力な馬力モーターを持つ電車が、それを牽引していたそうです。 出典②。
かつて、大阪・和歌山間を超高速運転し、府県境の「雄ノ山峠(おのやまとうげ)」を超えるために開発された、超強力なモーター。
これが戦後になって、遥か離れた東北の地で活かされたとは、なかなか興味深いものです。
同線が廃止になった後は、青森県の「弘南鉄道(こうなんてつどう)」へ移籍し、平成近くまで活躍を続けたとのこと。
その阪和時代の車両が引退した後、国電ではおなじみの「103系」(中央)や近郊型車両「113系」(左)が入れ替わりで登場、スカイブルー塗装で平成最後期まで長年親しまれました。
ところで、阪和線のもととなった「阪和電気鉄道」が運転していた看板列車というと、阪和天王寺・阪和東和歌山(現在の和歌山駅)間、
61.2kmをノンストップ・45分で結んでいた「超特急」。
特別料金の類はまったく不要でした。
徹底したハイスピードの権化とも言えるもので、戦後しばらくまでは日本最速記録を保持するほどのものでした。
戦後、国有化されて以来、この種の列車は絶えていたのですが、1972(昭和47)年3月のダイヤ改正で「新快速」があらたに設けられ、この両都市間を「鳳駅(堺市西区)停車」で、往時と同等の所要時間で、阪和間を結ぶようになります。
「阪和新快速」専用ヘッドマーク、京都鉄道博物館の展示より。
「阪和電気鉄道」の消滅から30年あまり、国鉄が甦らせた超高速列車、として、一部で注目を浴びたようですが、途中駅の旅客需要が高く、利用率が予想以上に延びないことから、数年で姿を消してしまいました。出典①。
そして、1987(昭和62)年4月には「国鉄」から「JR西日本」へ阪和線は移行。
民営化後は「特急くろしお号」の新大阪・京都への乗り入れ、沿線の関西空港開港、それにともなう関空特急「はるか号」「関空快速」や「紀州路快速」の運転開始、大阪環状線への直通…など、一気に利便性が向上、今日に至ります。和歌山・信太山にて。
殊に、京都・大阪から南紀方面への特急列車の増発ということによって、関西の人々にとっては、憧れのリゾート地・南紀白浜へ気軽にアクセスすることが出来るようになりました。
これも、開業当初から阪和が課せられていた「南紀連絡」という歴史が重ねられ、発展して来たこそだろう、と個人的には感じます。
このように、全通から90周年を迎えた「阪和線」ですが、沿線には意外にもかつての「阪和電気鉄道」ゆかりのものが、意外にも遺されているといいます。
最後にそちらを少し探ってみようと思います。
(出典①「国鉄監修 交通公社の時刻表」1972年3月号)
(出典② 同 1967年10月号)
次回に続きます。
今日はこんなところです。