阪和電気鉄道 昭和初期の面影〜その54「泉州を貫く軌跡 阪和電鉄全通90周年」展 Vol.11 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。


府南部、和泉市(いずみし)の「弥生文化博物館」で開催されていた「泉州を貫く軌跡 阪和電鉄全通90周年」という、特別展を訪問した際の様子をお送りしています。



現在の「JR阪和線」の前身である「阪和電気鉄道」、その「創立趣意書」なるものを拝見しています。会社を興すに当たり、出資者を募るためのもので、1926(大正15)年発行だといいます。

前回の記事で触れたのですが、この鉄道の敷設の目的としては、主に以下の3点があったようです。


①綿花の生産地である和泉地域への鉄道網の拡充
②泉北郡伯太村(せんぼくぐん・はかたむら、現在の和泉市伯太町)に駐屯する陸軍第四師団野砲兵第四連隊への交通確保
③大阪市以南から和歌山市域までを開通

順番に紐解いてみたいと思います。


まずは、①綿花の生産地である和泉地域への鉄道網の拡充から。

「阪和電気鉄道」の路線敷設が計画されていた泉州地域は、江戸の昔から、良質な綿花の栽培生産が盛んな地として知られていました。
近代の殖産興業期に差し掛かると、機械化が進み、紡績工場が多数設けられるに至ります。



戦後、その勢いは衰えるものの、近年ではタオル生産が盛んで、高品質な製品は人気を博しているといいます。
沿線の綿花栽培生産地や紡績工場などへのアクセス、また、鉄道貨物による製品の発送においては、大阪(を介して全国の国営鉄道網)とつながる阪和の敷設には、多大な意味合いと期待が込められていたことが窺えます。

海と山とが比較的近い、泉州一帯に広がる大阪平野を望む。「阪和自動車道 泉大津パーキングエリア」展望台より。


続いては、
②泉北郡伯太村(せんぼくぐん・はかたむら、現在の和泉市伯太町)に駐屯する陸軍第四師団野砲兵第四連隊への交通確保について です。

これは、趣意書後半の「…将来 大大阪の中心ともなるべき省線(鉄道省線。現在のJR)天王寺駅を起点とし 同和歌山停車場に接続する地点を終点とする 最速路を選んで国有鉄道との連絡を図る点でありまして 先ず大阪伯太(はかた)間を第一期計画とし工事着手後一ヶ年を以て開通せしめ…」というくだりに現れています。


「阪和電鉄御案内」昭和10年または11年発行より。まったく奇遇ですが、先ほど下車した「信太山駅(しのだやまえき、同)」の近くには「野砲聯隊」の文字が見られます。

解説にある「陸軍第四師団野砲兵第四連隊」がまさにそれに当たります。




大阪城のすぐ南東にあった「陸軍第四師団」の司令部庁舎。現在は観光スポットの「ミライザ大阪」となっている。


戦前の日本陸軍には、全国に「師団」と呼ばれる部隊が設けられ、作戦に従事していました。


西日本の拠点である大阪には「第四師団」が本拠を置いていて、周辺地域には、師団を構成する部隊、連隊が展開していたのですが、伯太村にあった「野砲連隊」はそのひとつでした。


高速道路などもちろんなく、道路網も貧弱な当時としては、兵隊や軍事物資の輸送において、

鉄道が果たす役割というのは、非常に高いウェイトを占めていました。



阪和のこの例に漏れず、沿線に陸海軍の施設が存在していると、敷設計画には必ずといってよいほどその名が挙げられた時代背景でした。


大正末期から昭和はじめにおいては、我が国では大規模な戦乱が起きる前の頃とはいえ、国防の意味においては、鉄道を用いた軍事輸送というのは、大変重要視されていたことがわかります。



ただし、皮肉なことに、このあと戦争が激化することによって、結果的に阪和は消滅してしまうことになってしまいます。これについては、また後日項で。


次回に続きます。

今日はこんなところです。