多扉車の元祖「京阪電車5000系」ラストランへ向かって〜その32 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。

 

6月のラストランが迫った、日本初で日本最後となった多扉車(たとびらしゃ)「京阪電車5000系」と、全国的に見ても、朝ラッシュ時の混雑が殊に激しかった京阪沿線において、昭和30〜50年代に旅客輸送対策のために行われた事業を、時系列に取り上げるということをしています。

 

 

先日まで「土居〜寝屋川信号所間高架複々線化工事」と、その最中に登場した「5000系」の貢献について述べて来ました。

 

 

工事自体は、付帯のそれを含めると、起工から実に10年あまりを要するという、大規模なものでした。

 

本工事の完成により、大規模な列車の増発が可能になり、ラッシュ時の混雑が大きく緩和されたのですが、工事期間中、激しい混雑をぎりぎりのところで食い止めていたのは、多数の旅客を詰め込める輸送が可能だった「5000系の5扉運行」に他ならなかったようです。出典①。

 

 

さて、天満橋から続く「高架複々線」が寝屋川信号所まで完成した後も、輸送改善のための計画は続けられました。「京阪線架線電圧1500ボルト昇圧(1983年)」です。出典②。

 

それでは、これについては京阪社史から拾ってみたいと思います。 

 

 

京阪電鉄が開業した明治後期、電気鉄道の電車線電圧は、技術面の制約から600ボルトが標準であった。その後の鉄道技術の発展により、国鉄や主要な民営鉄道の電車線電圧は1500ボルトが主流となっていた。

京阪電鉄は1959(昭和34)年に1500ボルトへの昇圧を検討したものの、75年の輸送量を59年の200%と仮定した場合、電車線電圧が600ボルトのままであっても輸送力が行き詰ることはないとの結論に達し、また京都市電との平面交差(四条・七条・伏見稲荷交差点)、大阪市電との平面交差(片町交差点)の問題もあり、昇圧計画は断念した。

 

しかし、輸送力の増加は予想を上回り、1966年には59年の200%に達し、その後も輸送需要は増加の一途をたどった。そこで、1969年に京阪電鉄は、再び1500ボルト昇圧への長期計画を策定し、昇圧計画がスタートした。

昇圧のネックとなっていた600ボルトの大阪市電・京都市電との交差も、市電の廃止にともないそれぞれ1968、1978年に解消され、1500ボルトへの昇圧計画は、京阪電車にとっての一大プロジェクトとして着々と進んでいった。

 

 

本文にありますように、実は、これら「市電との平面交差」が1500ボルト昇圧に当たって最大のネックであったとされています。四条にて。

 

 

一般的に電気鉄道同士が平面交差する場合、同じ電圧(600ボルト)でも、電気事故を防ぐため、交差する部分の架線に専用の器具を取り付け、絶縁状態にしなければなりませんでした(画像内□)

さらに双方とも、交差点を通過する際、その部分は通電していないため惰性で電車を走行させる必要があるなど、運行上、メンテナンス上でも大変に手間がかかるものでした。

 

さらに平面交差のまま、京阪側のみを昇圧させるとなると、電気事故発生の危険性の高さもさることながら、技術的に困難なことから、平面交差自体を解消しないと昇圧工事が先に進まないというジレンマが生まれてしまいました。出典③。

 

 

結局、最後に京阪と市電の平面交差がなくなったのは、1978(昭和53)年9月30日、地上時代の「七条駅(京都市東山区)」で平面交差していた「京都市電七条線」の廃止(これを以て京都市電が全廃された)によるもので、この後、昇圧工事は本格的に進められることとなりました。「京都鉄道博物館」館内展示より。

 

それでは、京阪電車が行った、架線電圧1500ボルト昇圧事業について、その経過をさらに探ってみたいと思います。

 

(出典①「ヤマケイ私鉄ハンドブック11 京阪」 廣田尚敬写真 川崎吉光著 株式会社山と渓谷社発行 1983年)

(出典②「京阪百年のあゆみ」京阪電気鉄道株式会社編・刊 2010年)

(出典③「鉄道ピクトリアル Vol.427 臨時増刊号 特集 京阪電気鉄道」電気車研究会編・刊1984年1月)

 

次回に続きます。

今日はこんなところです。