みなさんこんにちは。今日の話題です。

サンケイスポーツ大阪版 2021(令和3)年2月15日付け 1面より。いつも立ち寄るコンビニの新聞スタンドに「ノムさん南海」の見出しが!

前回に続いて、ホークスに関する記事をお送りします。ただし今日は「南海ホークス」です。
昨年、他界された野村克也さん。
その遺品の数々が、かつて野村さんが選手として活躍した「南海ホークス」の本拠地「大阪球場(ナンバ球場)」の跡地にある大型商業施設「なんばパークス」内の「南海ホークスメモリアルギャラリー」に展示されることになった…という記事でした。

いまさらながらの話しかも知れませんが、昭和の終わり頃までは、関西にはパ・リーグが3球団もひしめいていました。
そのうちのひとつが「南海ホークス」、戦前に結成され、昭和40年代まで「常勝チーム」として黄金時代を築いて来ました。

数々の名選手を輩出して来た南海球団ですが、
監督兼捕手、4番打者という、いまでは考えられない重責を背負って、プレーしていたのが野村さんでしたが、昭和52年にある事情で監督を解任されたことから、以降、南海球団とは絶縁状態になっていたといいます。
サンスポの見出しにもありましたが、野村さん亡き後、かつてバッテリーを組んでいた弟子の江本孟紀(えもと・たけのり)さん(野村さんが選手兼監督時代、見初めてトレードで東映=現在の北海道日本ハム=から南海に移籍させた)の取り成しで、解任の経緯からギャラリーに展示が皆無だったものをクラウドファンディングで改装し、あらたに野村さん関係の品々を展示するように取り組まれていたとのこと。
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江本さんが働きかけたのは、野村さんの息子で現在、東北楽天ゴールデンイーグルスコーチの克則さん。お孫さんに当たる、克則さんのご子息がメッセージを代読されていたのですが…
これは、とても心に残る内容だと感じました。
南海球団を語る上で、戦後初の三冠王に輝き、あの王さんに次ぐホームランを量産し、日本一にも幾度も大きく貢献した野村さんの存在というのは、決して外せないことなのでしょうし…
残念ながら、わたしの世代では「南海ホークス」というと、ノムさんは遠に居らず、万年Bクラスで客席はいつもガラガラ、おっちゃんたちの愉快なヤジが飛び交う、昭和60年代の様子しか記憶に残っていません。
そこから平成のはじまりとともに九州へ旅立ち、さらに親会社もスーパーからIT企業に替わり、常勝チームに至るいまと、当時の様子を知っている者としては、現在のホークスを見るに、感慨無量ではあります。
エモやん、本当にいい仕事されましたね!
今日はこんなところです。
(出典「ホークス80年史 Vol.1 闘魂継承・Vol.2 フルスイングの系譜」ベースボールマガジン社刊 平成30年4・5月発行 より)