多扉車の元祖「京阪電車5000系」ラストランへ向かって〜その11 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。


本題の「5000系」からは少し話しを拡げ、全国的に例のないほどの沿線人口の爆発的な増加の中、年を追うごとに激化していった京阪電車の平日朝ラッシュ時輸送、その解決のために昭和30〜50年代に採られた対策について、時系列的に掘り下げるということをしています。

 

 

「京阪電車京橋駅(大阪市都島区)」について取り上げているところです。

京阪最大の乗降客数を誇り、大阪の東の玄関口としてふさわしい、立派な高架駅です。



さて、先日の記事から述べておりますが、昭和30年代に入り、沿線開発の進行で人口が爆発的に増大し、また大阪市内中心部への「淀屋橋延伸(昭和38年4月)」で、京阪の利用客は例を見ないほどに増加の一途をたどりました。


その状態の解消のために取られた対策のひとつが、今回取り上げている「天満橋〜野江間高架化・京橋駅移転(昭和44年12月、複々線化は翌年12月)」でした。

 

 

グーグル地図より。

前回の記事からは、半世紀前に姿を消した「旧京橋駅」付近の地上線の残影をあれこれと探索しています(黄色□が激しい混雑を呈していた踏切・地下道跡、灰色□が環状線をくぐっていたガード跡)。

 

 

当時の「旧京橋駅」大阪方に、環状線をくぐるガードがありました。

京都方面へ向かう列車ですと、これをくぐるとすぐに混雑する踏切と、ホームがあったのですが、構造上、大変見通しが悪く、乗務員の方々は相当に神経を遣われたという逸話もあるようです。出典①。 

 

 
くだんのガードを大阪方から望んだところ。
昭和30年代のものと思われますが、先ほども述べたように、ガードの向こうにはすぐ踏切と、人で溢れる狭いホームが迫るという、難儀な構造だとわかるのですが… 出典②。
 

現在のガードの様子。
半世紀前の雰囲気が、ぷんぷんと残されているではないですか!これはうれしい遺産です。 
 
 
 
ガードの内部を観察してみますと…レンガ積みの擁壁が整然と並ぶ、時代を感じさせられるもののように感じます。 
 
 
そしてその上部には、不規則な配置の突起が残されています。ひょっとしたら、電線の類を支えるものだったのでしょうか。そして…



 
 
このガードの正式名称は「京阪電鉄交叉橋」
そのように記されたプレートがしっかりと遺されているではないですか!
いまでは、ここを京阪電車が通っていたことを知る層は、おそらくはそう多くもないのでしょうが、これはその歴史の証しですね。 

古めかしい、銘板の内容も気になりますが…
こういったものを見つけるのは、趣味的に大変愉しいものです。
 
 
余談ですが、この旧線と旧駅が現役の頃、わたしはもちろん生まれてもいないのですが、当時京阪沿線の枚方在住だった実母は、最寄り駅から京阪電車に乗り、まさにこの駅で環状線に乗り換えるというルートで通学していました。

列車が京橋に近づくに連れて、車内では身動きさえままならず、ガラスが割れたり、時には、積み残しになった人々から怒号が上がったりと
いまでは想像もつかないものだったようです。
あまりの過酷さに、車両同士をつなぐ貫通路へ逃げていたとも言っていましたが…



ただし、学生の途中から高架新駅に移設したので、人の多さは相変わらずだが、それはそれはまるで天と地のようだった…といまだに話しのネタにしているほどです。余談でした。 
 
 
そういったことで「旧京橋駅」と、その前後の地上旧線について、項を割いて来ました。
輸送の隘路となっていたこの駅と前後区間ですが、高架複線化は成ったものの、翌1970(昭和45)年の複々線化の完成までは、ボトルネックになっていた区間がなおありました。

京橋の次駅、「野江駅(同城東区)」との間に存在した「蒲生(がもう)信号所」です。

次回に続きます。
今日はこんなところです。