みなさんこんにちは。前回からの続きです。
10月でデビューから50年を迎えた、JR西日本の看板列車「新快速」、その歴史をひもといた、特別展が行われている「京都鉄道博物館(京都市下京区)」を訪れた際の様子をお送りしています。
博物館での展示を拝見しています。
前回の記事では「新快速」登場のきっかけのひとつになったのは、デビューの同年に開催された「日本万国博覧会(大阪万博)」観客輸送のために、国鉄が運行した「快速万博号」なる臨時列車…ということに触れました。
「はじまり」についての解説がありました。
臨時快速をはじめ、利用客が増加した国鉄では、それを転機に、ドル箱路線と言える京阪神間での輸送改善を目指したことが、その理由だったとあります。
ところでここからは、先日の記事でも取り上げました「国鉄監修 交通公社の時刻表 1968(昭和43)年10月号」より。「新快速」登場前、京阪神間の国鉄ダイヤを確認してみます。
万博開催1年半前のものですが、京阪神間で運転されている快速列車を見ますと、列車本数は少なく、運転間隔は15分おきと設定されてはいますが、1時間あたり快速列車が4本のみ。
多数運行されている、山陽・九州方面へ向かう特急・急行列車に比して、薄い黒字で示された普通・快速列車の本数は少なく、さらに比較的短い区間にとどまっているものもあります。
さらにこまかく観察していますと、快速列車でも「大阪発広島行き」という、いまでは考えられないような長距離を走る列車が散見されます。これらの長距離快速・普通列車は、主に機関車が牽く客車列車で、スピード面では電車に比べても格段に落ちるものでした。
これらの状況というのは、昭和40年代半ばまで、利用客が比較的多い京阪神間においても、東海道・山陽・九州方面を往来する長距離運転の特急、急行などの優等列車が最優先されるダイヤが組まれていて、地域輸送を目的とした電車を使用した列車は、その間にねじ込むようにして設定がなされていたことが窺えます。
これは、山陽新幹線博多開業(昭和50年3月)の頃まで続く現象でした。
ところで、当時国鉄のライバルだった、関西大手私鉄のページもここで確認しておきたいと思います。
京都・大阪間で競合する「京阪電鉄」。
看板列車の「テレビカー」を連結する「京阪特急」や、主要駅に停車する急行も、終日にわたって20分間隔の運転(この3年後には、さらに15分間隔となる)。
同じく、「京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)」。
こちらも、特急や急行は15分間隔での運行。
さらに「阪神電車」。
こちらは、戦前から高頻度での運転を売りにしていたことが知られていて、全線にわたって12分間隔での運転がなされていました。
「待たずに乗れる阪神電車」という文句が、広く浸透していたほどだったようです。
「新快速の登場」というものは、長距離輸送最優先の中でも、京阪神間という比較的短い距離に位置する都市間輸送において、私鉄に大きく後れを取っていた国鉄が、強力なライバルの各私鉄に対抗するという意味合いも大でした。
「毎時00・15・30・45分発」というようなわかりやすい「パターンダイヤ」の導入、客車列車よりも早くて快適な電車の充当、さらに普通列車だけでなく、異なる速達型の種別(ここでは新快速や快速を指す)を拡充、新設することで、利用客の「遠近分離」を図る(=同一の列車に、短距離・長距離の利用客が混在する状態を解消する)といういまでは当たり前のサービスは、京阪神間の国鉄においてはここから徐々にはじまったと言えます。
ところで、興味深い展示を見つけました。
くだんの「新快速」が運行を開始したまさにその時の、「交通公社の時刻表 1970年10月号」なのですが…
新設された列車は、見慣れた「新快速」ではなく、なんと「特快(特別快速)」となっています。
「特快」というと、JR東日本の「中央線」がお株…なのですが、これについては、毎度おなじみ「Wikipedia#新快速」より。
同様の性格の列車は、既に首都圏の中央線でも「特別快速」として運転されていた。
当初、大阪鉄道管理局(注釈:通称、大鉄局。当時、国鉄は各地域で鉄道管理局、総局などという形で営業エリアを分けていた)はこれに倣って「特別快速」という名称で国鉄本社の許可も得ていたが、運転開始の直前に「フレッシュさを出したい」という理由で「新快速」という呼称に改めた。
とありました。これは初耳だったですね。驚きました。
ところで、「初代新快速」に充当された列車というのは、この「113系」と呼ばれる近郊型電車でした。
もともと、新快速が登場する数年前から、京阪神間を中心に投入がはじまり、主に快速電車として運用がはじまっていました。
そこで登場するのが、先日の記事でも触れました「万博号」をはじめとする臨時列車に使用された車両群です。
万博の大輸送のために国鉄は、主に首都圏から応援のために多数の車両を関西に配属させていました。その中には「横須賀線」などで運行されていた、いわゆる「スカ色」と呼ばれる塗装の車両も多数ありました。
万博閉幕後、これらの車両の使用に当たって一案が計じられたのが「新快速の運行開始」のひとつだったようです。
この塗装の車両の使用は、関西ではこの例以外には後にも先にもないことで、鉄道趣味的には異彩を放つ存在だったに違いありません。
次回に続きます。
今日はこんなところです。