みなさんこんにちは。今日の話題です。
関西テレビ(KTV)「報道ランナー」2020(令和2)年8月14日放送より。
「アジア・太平洋戦争」の終戦から、今日で75年を迎えました。
その前日の昭和20(1945)年8月14日、大阪・京橋一帯で大規模な空襲がありました。
「京橋空襲」と呼ばれるものですが、その慰霊祭が当地で行われたという話題でした。
こちらは「JR京橋駅(大阪市都島・城東区)」。「京阪電車」や「OsakaMetro」が乗り入れる、大阪の東のターミナル駅です。
乗り換え客で賑わう北口とは真反対、日中は人の通りが少ない南口で、慰霊祭は行われます。
終戦の前日に、600名以上の尊い命が喪われたという惨劇だったと言いますが、大阪では、毎年どのメディアでも大きく報道される慰霊祭、個人的にはこの報を耳目にすると、今年も終戦の日がやって来たのだなと感じるものです。
朝日大阪夕刊 同 9面(社会面)より。
疎開先から、大阪市内にひとり残った父を迎えにやって来た、当時中学生だったという方の証言が掲載されていました。
この方は、防空壕に避難して一命を取り留められたというのですが…
1トン爆弾が直撃した「国鉄京橋駅」の構内は徹底的に破壊され、悲惨な状況だったことを語って居られます。
「京橋駅」で大変な被害をもたらした空襲、という印象が強いものですが、もともとは、駅南側に広大な敷地を誇る「大阪砲兵工廠」という、当時「東洋一」と称された兵器工場を狙ったものでした。その流れ弾数発が、駅と乗客たちを巻き込んだ…と言われています。
ガード自体は修復されたようですが、それを支える擁壁は当時のままの姿を残しています。
地元に行く路線ながら、このことは長らく詳しく知りませんでした。
こんな頑強なものをいとも容易く破壊する爆弾が…想像するに、本当に恐ろしいことです。
ところで、毎年、この慰霊祭の報道に触れるにつけ感じることですが、この方も記事の回想の中で語って居られた、この一言ばかりが浮かびます。
「あと一日早ければ」…
翌日の正午には、昭和天皇の玉音放送が放送され、戦争は終わるのに、という事実です。
ただ、連日連夜続く空襲、また衣食住が不足する中で、いつ終わるやも知れぬ戦禍の中、必死に生きて居られた当時の人々…
親世代でさえ戦後生まれのわたしには、まったく想像だにつかないことです。
亡くなられた方々は、本当に無念なことだっただろうという感を禁じ得ません。ついぞ、翌日に戦争が終わるということも知らず…
そういったことも加わって、毎年、胸が詰まる思いでいっぱいになる、終戦前日の祈りの日が今年もやって来ました。
犠牲になられた方々に、心からお祈り申し上げる次第です。
今日はこんなところです。