自粛要請が解除になったらいちばん行きたかった大阪城を散策する その17 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。

府内への自粛要請が解除されたら、いちばん行きたかった大阪城を先日、散策した際の様子をお送りしています。

 

 

「大阪城天守閣」を拝観しています。階段を昇りまして、6階にやって来ました。 

 

 

こちらでは、大阪城の歴史について語る上では避けられない「大坂冬の陣(1614)・夏の陣(1615)」について詳しい解説がありました。

ここからは、それについて少し触れたいと思います。

 

かつて、西国の要衝であるここ「大坂」に、きらびやかな城を築き、日本一の商業の街の基礎を造り上げた豊臣秀吉公。その死後、実権を握って天下統一を遂げようとする徳川家康公。 

 

 

「関ヶ原の戦い(1600)」で東軍が勝利を収めた結果、270年あまりに渡って続く徳川政権が成立したことはいまさら語るべくもありませんが、敗れた豊臣家は一大名となったとは言え、依然として西国で一大勢力を誇っていました。

 

 

「新詳日本史図説」(浜島書店編集部編・刊行 1991年11月発行)より。高校時代、使用していた教科書の図録です(苦笑)

 

それから10数年後、「方広寺(ほうこうじ。京都市東山区)の鐘」に刻まれた「国家安康 君臣豊楽(こっかあんこう くんしんほうらく)」という鐘銘(「家康」の名前を切り離し呪いをかけていて、豊臣を君主として楽しむ=繁栄する=としているとされた)を巡り、豊臣家と徳川幕府は対立するに至り、徳川政権は豊臣家を滅ぼそうとする戦に持ち込みました。それが「大坂の陣(大坂夏の陣・冬の陣)」です。

 

 

「冬の陣」では、城のまわりに豊臣軍、それを囲むように徳川軍。双方の相当な大軍が激突するに至りました。


しかし、その当時の地図…現在とはかなり様相が異なるのが気になります。

 

 

ヤフー地図より。現在も残る地名を色つき□で囲ってみました(「小橋=おばせ=」は「鶴橋=つるはし=」周辺で、現在でも残る地名)。


解説にあった当時の地図と比べますと、川の付け替えや埋め立てなどで、地形が相当に異なっているのがわかります。 

いまでも、市内中心部には大きな川が悠然と流れる大阪ですが、当時はそれ以上のものだったのだなと驚きます。余談でした。 

 

 

さらに拡大したもの。 

城の周りには幾重もの堀。そして、さらにその外側には河川。「大阪城」というのは、自然条件を活かしたお城だったことが窺い知れます。 

 

 

そして現在のもの。こちらでも、数あった川や堀の姿は見られません。


「大坂冬の陣」は、双方にとってかなりの消耗戦であったようで、合戦の後に和睦(わぼく。講和)を結ぶに至っています。

 

ところで、その和睦の条件としては、

豊臣家側の条件

本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、惣(すべて)構の南堀、西堀、東堀を埋めること

・淀殿(よどどの。秀吉公の側室)を人質としない替わりに家臣の大野治長、織田有楽斎より人質を出すこと。

 

これに対し徳川家が

・秀頼(ひでより。秀吉公の長男)の身の安全と本領(自分名義の領土)の安堵

・城中諸士についての不問

(Wikipedia#「大坂の役」より)

 

という内容で合意がなされ、一時は戦乱は収まるかに思えました。ところが…

 

次回に続きます。

今日はこんなところです。