みなさんこんにちは。前回からの続きです。
府内への自粛要請が解除されたら、いちばん行きたかった大阪城を先日、散策した際の様子をお送りしています。
「大阪城天守閣」を観覧しています。なかなか、興味深い展示が続くのですが…
こちらは城を支える基礎、つまり「石垣」についての解説でした。
天守閣に至るまでの道のり、美しく、さらに整然と積まれた石垣を眺めて来ました。
土木技術が進化した現在においても、仮にもし同じようなものを造ろうとしても、さぞかし大変な手間ひまがかかるのではないか…などと、素人のわたしでも感じます。
この「大阪城」で使用されている石垣は、すべて「御影石」なのだそうです。それも結構な、否、ものすごい数です。
その原産地を見てみます。府内(善根寺=ぜんこんじ=東大阪市)はもちろんのこと、大阪に近い奈良、京都、六甲山(兵庫県)、あるいは水運交通の為せる技か、瀬戸内海の小豆島や現在では「瀬戸大橋」が架かる塩飽諸島(しわくしょとう)…
さらに、いちばん遠いものは「沓尾(くつお。現在の福岡県行橋市)」から切り出されて送られていたようです。
もちろん、その輸送に当たっては大変な労力を要したことが窺い知れます。ただでさえ重量のある巨石ですから、切り出しはおろか、船で運搬するのにも大変だったに違いありません。よもや船が沈んだりしなかったのでしょうか。
大阪城が建造された当時は、現在よりかなり内陸部まで海が入り来んでいたのですが、そこから陸上げして城まで運ぶとなると、この展示にあるようにやはり多数の「人海戦術」でした。
しょうもないことですが、石垣の上で発破をかけている人々が居なければ、少しは軽くなるはずでは…などと思うのは無粋ですね(笑)
このようにして、苦労して運ばれて来た巨石には、その原産地を示す「刻印」が記されていたと言います。
いや、これはさまざまな形で興味深いです。
築城に駆り出された諸大名からしてみれば「自分たちが苦労して運んで、築城に貢献した」という証を後世に遺したかった、というところでしょうか。
次回に続きます。
今日はこんなところです。