自粛要請が解除になったらいちばん行きたかった大阪城を散策する その16 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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みなさんこんにちは。前回からの続きです。

府内への自粛要請が解除されたら、いちばん行きたかった大阪城を先日、散策した際の様子をお送りしています。

 

 

築城された当時としては、大規模なものだった「大阪城」で、大量に使用された「石垣」についての解説を拝見しています。

 

工事に当たった諸大名が苦労して運んだ巨石には、どこから運ばれたのかわかるように、それぞれに「刻印」がなされているとのこと。現在でも、城内のあちこちで確認出来るようです。

 

 

ところで、天守閣に至るまでの道のりの途中、なにやら不思議な石が並んでいる一角があったことを思い出しました。

 

 

 

その名も「刻印石広場」。

先ほど触れたように、大阪城築城に当たって、西日本各地から集められ使用されていた石の一部がここで保存されているというものでした。

 

 

 

 

 

こちらは、あたかも「象形文字」のようです。

 

 

 

 

 

 

〇、△、□…それ以外に、文字が刻まれたものもあったり、いや、これはおもしろいものです。

 

 

ところで、天守閣入り口にはこのようなものもありました。

 

 

こちらも、かなり大きな石です。四角の刻印も刻まれていて、どちらかで使用されていたものなのか?と思うのですが…

 

 

ですがこの石、「残念石」という名前が付けられています。

「小豆島(しょうどしま、香川県)」で切り出され、船でここまで運ばれて来たものだそうですが、残念ながら?使い道がなく、そのまま放置されるに至ったものなのだとのこと。

 

 

 

よくよく観察しますと、これだけの立派な石ですから、なにかしら使い道があらへんかったんかいな?などと思うのですが。

あくまで素人考えですが(笑)

 

 

ところで、大変な労力を要して建設されたこの城の石垣ですが、解説をさらに読んで行きますと、昭和30年代に入ってから行われた詳細な調査によると、最初に築城に当たった「豊臣時代の大坂城」の石垣は目に見える形では存在せず、現在残っているのは「徳川幕府になって再建された際に、豊臣時代のそれを撤去して、いちから石積みをし直したもの」だというではないですか。

 

 

 

同じく解説パネルから。右が「豊臣時代の大坂城(初代天守閣)」、左が「徳川時代の大坂城(二代目天守閣)」とのこと。

初代に比べ、二代目の方がはるか立派ですね。

 

 

せっかく残されている石垣をなぜに再利用しなかったのか?ということが疑念に残りますが、おそらくは二代目天守閣を建築した徳川政権としては、かつては従属していたものの、後に敵対した宿敵「豊臣家」の遺産を遺したくなかった…ということを推測させられます。

 

その証左に「大坂冬の陣・夏の陣(1614・1615)」で徳川軍は、勢力を削がれた一大名とは言え、西国に君臨していた豊臣家を滅亡させるに至ったことが挙げられるでしょうか。

 

 

 

徳川幕府は、この城の天守閣の再建に関しては、さらに、土台までも嵩上げしたりしていたようです。


つまり、敵の面影を些少なまでも遺したくなかった…という、ものすごい執念のようなものを感じます。歴史というのは、紐解いていきますと実に奥深いものなのだなと感じます。

 

次回に続きます。

今日はこんなところです。