みなさんこんにちは。前回からの続きです。
「寺社仏閣と御朱印を巡る」と題して、桜満開間近な「四條畷神社(しじょうなわてじんじゃ、大阪府四條畷市)」へお参りした際の様子をお送りしています。
(注)大阪府への緊急事態宣言発令前の訪問記です。念のため…
緑濃い、大阪・奈良の府県境に位置する「飯盛山(いいもりやま)」の中腹に、このお社はあります。明治23(1890)年の創建と、神社としては比較的近年になってからです。
別の場所には「神社由緒記」。
ただ、少し難しいように感じられましたので…
手元にありますこちらの、
「各駅停車全国歴史散歩28 大阪府」(大谷晃一著・河出書房新社刊 昭和55年1月初版 絶版)から拾ってみます。
四條畷の古戦場
四条畷駅の前方にそびえる飯盛山(いいもりやま)。その名のごとく、飯を盛ったような形をしている。
このふもと一帯が、南北朝時代(なんぼくちょうじだい。鎌倉幕府滅亡の後、皇位継承の候補となる皇族が互いに正統な皇続を主張したことで、皇室が「南朝=奈良・吉野」と「北朝=京都」に分裂し、約50年にわたって南朝・北朝の相互で皇位継承が行われ、全国的な戦乱が繰り広げられた時代)の四條畷の戦いの地である。
正平三年(一三四八)一月五日、楠木正行(くすのき・まさつら、?-1348)の三〇〇〇の軍と、足利方の高師直(こうの・もろなお、?-1351。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて「北朝」を奉じる足利尊氏に仕えた武将)の六万の大軍がこの地で激戦。
飯盛山には、師直の一軍が陣をしいたという。
足利方の大軍を相手に、正行軍は死を決してよく奮戦した。敵の本営に迫ったが、ついに力がつき、正行は弟の正時(まさとき、?-1348。この戦では副将を任じられる)と刺し違えて死に、一族郎党もこの地に自刃して果てた。
時に正行二四歳、正時は二二歳であった。この敗戦で南朝方の勢力は急速に衰えた。
正行は、正成(まさしげ、?-1336。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。後醍醐天皇を奉じ、鎌倉幕府の滅亡に大きく貢献する)の嫡男。
正成が湊川の戦い(1336。現在の神戸市中央・兵庫区付近で展開された「北朝」を奉じる足利尊氏らとの交戦)で死んだ後は、その遺志を継ぎ、後醍醐天皇(ごだいごてんのう、1288-1339。第96代天皇・南朝の初代天皇。配下の武将により鎌倉幕府が滅亡した後に即位するが、北朝側の足利尊氏らに敗れ、奈良・吉野に『南朝政権』を発足させる)、後村上天皇(ごむらかみてんのう、1328-1368。第97代天皇・南朝の第2代天皇。父・後醍醐天皇の遺志を継ぎ、南朝の発展に尽力する)につかえ、足利氏に対抗した。
正成を大楠公(だいなんこう)というのに対して、正行を小楠公(しょうなんこう)と呼ぶ。
楠木親子の天皇への忠誠は、明治政府によって大いにもはやされる。明治天皇は、正行に従二位(じゅにい。いわゆる「叙勲制度」での位づけ。明治以降では、20ある階位のうち、上位から4つ目に当たるもの)を贈り、勅令により大阪府知事や地元有志の手で、正行兄弟以下一族二四人を祭る四條畷神社が建てられた。
軍国時代は、出征兵士や青少年団体が、参拝の列をつくった。
戦後は訪れる人もまばら。桜や紅葉が、静かなたたずまいを飾っている。
(出典同 P208-209)
「南北朝時代」という、明治維新から数えて500年以上前、天皇に忠誠を誓った楠木一族への功績を讃える鎮座だったことがわかります。
「君主政体(日本では"天皇を中心にした国家制度")」、そしてその考え方の中枢にあった「皇国史観(こうこくしかん=日本という国家は皇室と天皇が存在することで、すべてが成り立っている)」という、近代日本におけるこれらのイデオロギーは、先の大戦の終焉、つまりわずか70数年前までは、このようにごく日常のものであったことに、顧みれば歴史の重みを感じます。
次回に続きます。
今日はこんなところです。









