寺社仏閣と御朱印を巡る~その9 四條畷神社(大阪府四條畷市)⑤ | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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みなさんこんにちは。前回からの続きです。

「寺社仏閣と御朱印を巡る」と題して、桜満開間近な「四條畷神社(しじょうなわてじんじゃ、大阪府四條畷市)」へお参りした際の様子をお送りしています。

 

(注)大阪府への緊急事態宣言発令前の訪問記です。念のため…

 

 

例によって、駅からいろいろと寄り道ばかり?しながら、ようやく「四條畷神社(しじょうなわてじんじゃ、大阪府四條畷市)」にたどり着きました。 

 

 

さて、社碑の横には…なんとも、風情のあるお店があります。

大正か昭和初期のものか、という感を受けますが、 いまなお旅館として営業をされているようです。こういった佇まいの旅館は憧れですね。

昔は、きっと参拝客でさぞかし賑わっていたのだろう…と、想像するのも楽しいものです。

 

 

いよいよ、境内に入ります。

立派な鳥居ですが、その前には自転車や原付がいっぱい。

まさか、これほどの人がお参りに来ている…という訳ではないのでしょうが、ちょっとびっくりします。 

 

 

鳥居の碑文を確認してみます。「昭和14年4月建立」と、比較的近年のものでした。


神社自体も、明治23(1890)年の創建と、明治の半ばに入ってからだそうですが、鳥居が建立された時代を考慮しますと「神武天皇(じんむてんのう、初代天皇)の即位から数えて2600年」という、国を挙げての祭事だった「紀元二千六百年記念(1940年、昭和15年)」の前年に当たりますので、ひょっとしたらそれとなんらかの関連があるのかも知れません。

 

ただし、祀神の「楠木正行公(くすのき・まさつら)」にまつわる墓所などは、南北朝時代に当地で展開された「四條畷の戦い(1348年)」で戦没した後から別の場所にあり、懇ろに祀られていたそうです。 

 

 

そして、この鳥居を寄贈したというのは…

根津嘉一郎(ねづ・かいちろう、1860-1940。明治から昭和初期にかけての実業家。根津財閥=現在の東武グループ=の創始者。多数の鉄道会社の運営に関わり「鉄道王」の異名を持つ)」でした。これにはびっくりしました。 

確か、現在の東武鉄道や、南海鉄道(現在の南海電車)の創業に大きく関わった人物、ということだけは知っています。


根津翁は鉄道会社のみならず、碑文に記されている「富国徴兵保険相互会社(現在のフコク生命)」を興したことでも知られているそうですが、そういった財閥の著名人が鳥居を寄贈するほどですから、その当時の「四條畷神社」は隆盛を極めていたのでは…と感じます。

 

 

ここで、歴史についての余談。


先日の記事でも少し触れましたが、明治維新以降の近代日本は、徳川政権の「大政奉還」を受けて、明治天皇が「王政復古の大号令」を1868(慶応3~4、明治元)年に発令したことで、これまでの「武家政治」から、「君主政体(くんしゅせいたい。日本の場合は”天皇を中心にした国家制度”)」に変わり、「アジア・太平洋戦争」の終戦(昭和20年)まで、いわゆる「国家神道」の政策が推進されるに至りました。

 

 

その頃から全国各地で、古来からある神社の格付けや、歴史上、皇室や天皇に対して功績のあった人物を祀神として、あらたに神社・神宮が創設される動きが盛んでした。


この「四條畷神社」も、皇室が「北朝(京都)」と、「南朝(奈良・吉野)」とに分裂した南北朝時代に「正当な皇統」とされた「南朝」の忠臣で、戦没した「楠木正行公」の功績を讃える目的で創建されたものです。

 

 

実は、そういった経緯で、明治に入って創建された神社は数多いと言います。

著名なところでは「平安神宮(京都府)」「橿原神宮(奈良県)」「近江神宮(滋賀県)」「明治神宮(東京都)」…とあるようです。

 

現在からではなかなか想像がつかないことですが、歴史の移ろいというのは、少し掘り下げてみると興味深いものがあるのだなと感じます。


次回に続きます。

今日はこんなところです。