【再UP】JR北海道 全線完乗への道!その38~「札沼線 新十津川ー北海道医療大学前間」が廃止⑦ | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

(2016年7月17日アップ分を再編・再掲)

みなさんこんにちは。前回からの続きです。

表題の旅もいよいよ大詰め、道都・札幌までもう少しという「石狩当別駅(いしかりとうべつえき、石狩管内当別町)」に到着しました。

 

 

「新十津川駅(しんとつかわえき、空知管内新十津川町)」から乗車して来た1両編成のディーゼルカー。「1日1本のみの運転」、すなわち「始発列車であり最終列車でもある」という稀有な体験をすることが出来ました。


ただ、この駅から先の区間、存廃を含めて今後の動向が注目されるところです。

 

 

さて、この「石狩当別駅」は「札沼線最大の中間駅」という位置づけで、札幌方面からやって来る列車の大半が折り返すという「基幹駅」でもあります。路線名称も、ひとつ手前の「北海道医療大学駅(同)」から札幌寄りの区間は「学園都市線」という呼称がなされています。

 

 

次の「札幌ゆき」までは待ち時間が30分ほど。いったん改札を出てみます。

 

 

旅して来た中、北海道の多くの駅で見かけた「耐寒装備」のガラス張りがここでも、改札前にありました。待合所は広く、明るい印象です。

 

 

札幌駅までは12駅、所要時間も40分程度です。

日中もおおむね30分程度の運転間隔とのことで、完全な「札幌都市圏」にあるここ「当別」です。

 

 

広域地図ではこのような感じ。並行していた「石狩川」がこれまでと大きく向きを変え、「石狩湾」、そして「日本海」へと注いでいる様子がわかります。


知らなかったのですが「丘珠空港(おかだまくうこう)」は、この周辺にあったのですね。

 

 

改札を出ますと、駅の南北を結ぶ立派な自由通路に出ます。

 

ところでこの待ち時間の間に、駅周辺を散策してみようかと思うのですが、朝からの強風がますます強くなり、それどころではなくなってしまいましたので断念しました…

 

 

その代わりと言っては何なのですが、この「自由通路」を往復してみることにします。

そこで気になったのがこのモニュメント。

 

 

解説を読んでみますとこれは「記念ヘッドマーク」だそうですが、この「札沼線」には存在しない「有備館駅(ゆうびかんえき)祝開業10周年」という文字が見られます。

 

 

では、そのあたりの経過については、

「各駅停車全国歴史散歩 北海道1・2」(北海道新聞社編・河出書房新社刊 昭和54年6月初版 絶版)から拾ってみます。

 

士族移民のまち 石狩当別

 

人口減ストップ

 札幌まで国鉄でニ七・五キロメートル、片道四○分のディーゼルカーが一日一一往復している。完全舗装の道路もできて、車で走っても国鉄と同じくらい。札幌の通勤圏に入ってしまった。静かなまちのたたずまいは札幌市の郊外住宅地を切りとってきたよう。

人口はピークを示した昭和三六年の一万九八三ニ人から少しずつ減っていまは一万七○○○人台。

それでもこの数年は減りそうで減らない。

役場の職員も「そうですね。まちの見直しがはじまったということですかね」と統計表を繰りながら改めて”わが町”を見直すていだが、たしかに「いいまちだよ」という声が多い。

 

明治四年開村

 しかしこの”いいまち”も、はじめから”いいまち”だったわけではない。

ここに初めて移民が入ったのは明治四年。旧伊達藩岩出山(いわでやま)城主・伊達邦直(だて・くになお、1835-1891。仙台藩から分家した岩出山伊達家の当主を務め、明治維新以降は北海道開拓に尽力。「当別」の基礎を築く)が元家臣ら一八○人を連れてやってきたものだが、入植に先立って行なわれた現地調査の記録がある。

 

 

「岩出山」とは、宮城県大崎市に所在する地名です。

 

 

拡大するとこのような位置関係です。

東北本線の「小牛田駅」(こごたえき)から東方向へ、山形県の新庄駅までを結ぶ「陸羽東線(りくうとうせん)」の途中駅に「岩出山駅」があります。岩手県との県境に近く、あの「松島」にも近いところです。

 

ここ「当別」もこれまで訪れた道内各地と同じく、道外からの移住者による開拓でつくられた街だということですが、こちらの場合は「元家臣」と記載があるように「お侍が開拓に当たった」という史実があるようです。

 

ヘッドマークにある「岩出山」というのは、この「岩出山伊達家」の当主が代々、居住していた城郭「岩出山城」を指すものだそうで、ちなみに、天正19(1591)年の築城当初にはあの「伊達政宗公」が居住していたとのこと(こののちに「仙台城」へと転居、また「有備館(ゆうびかん)」というのは、その仙台藩の「藩校」)。

その「岩出山」から、この「当別」へ伊達家の家臣たちが移住した経緯を少し掘り下げてみますと、明治維新の際に幕府軍の一員として参戦した家臣が、官軍の勝利により家禄を大幅に減らされ、士族身分を剥奪され困窮している姿を見た邦直が彼らに渡道の道筋をつけた…というそうで、後年、その邦直も北海道へ渡り、この「当別」の開発に尽力したそうです。

 

明治維新という大きな時代の流れの中で、故郷を、それ以上に「侍」という立場を追われ、きっと慣れぬであろう厳しい開拓事業に当たったという史実があったこともまた、大変注目されることです。「立場ひとつの違いで大きく境遇が変わった」という事実は、これがまさに「歴史の成せる業」かとも思ってしまいます。

 

では、本文に戻ります。

 

それによると、

「目の極まる処、巨木鬱蒼として天を覆ひ昼なお暗く、蘆葦濛々(ろいもうもう)として咫尺(しせき)を辞せず」

(現代語に意訳すると…「見るも一面、巨木が鬱蒼と天を覆って昼でも暗く、葦などがところ狭しと茂っている」といったところでしょうか)

 

だったという。

誇張ではなく、そのとおりだったという。のちになってその証言もある。にもかかわらず移住に踏みきったのはその肥沃な地味にひかれて。春になると雪どけ水を集めてあふれる石狩の流れが、流域の地味をゆたかなものにした。

当別に生まれた作家・本庄陸男(ほんじょう・むつお、1905-1939。プロレタリア文学作家)の代表作「石狩川」は、ふるさと当別に入植した士族移民の苦闘の跡をたどったもの。昭和一四年に出版されたこの作品の「あとがき」で、本庄は次のように述べている。

 

 「をこがましくも作者は『石狩川』の興亡史を書きたいと念願した。川鳴りの音と漫々たる洪水の光景は作者の抒情を掻き立てる。その川と人間の接触を、作者は、作者の生れた土地の歴史に見やうとした。そしてその土地の半世紀に埋もれたわれらの父祖の思ひを覗いてみやうとした。」

 

小説だからフィクションの充填剤を多少は使っているが、事実からそれほど離れたものではないといわれる。北海道開拓史の一つの典型をとらえたものとして一読してもいいように思う。

 

激しい蛇行を繰り返していた「石狩川」ですが、その流れによって肥沃な土壌が生み出されたのでしょう。

ここ「当別」だけではなく、ここまでに至る石狩川流域の「新十津川・浦臼(うらうす)・月形(つきがた)」などでも同じような経緯で、農耕地の興隆があったことが伺い知れます。

 

 

出典同 P17 前文より抜粋。

 

しかし、この当時の様子ですが…
現在からはまったく想像がつかない、厳しい生活環境だったことが伺えます。

これまで巡って来た道内各地において、この書籍で当時の様子をさまざまひもといて参りましたが、「北海道開拓の黎明期」というのはいずこも「荒れ放題な土地」ばかりだったようです。

 

また、このような記述も同じ「各駅停車全国歴史散歩」にありましたので、少し取り上げたいと思います。先ほどの「本庄陸男」についてです。

 

…北海道生まれで北海道に深い愛着をもっていた作家・本庄陸男の小説に、明治初年、宮城県下から北海道の石狩川下流の流域に入植した仙台支藩岩出山城主と家臣の足跡をたどった「石狩川」がある。

本庄自身開拓者の子供で、窪川鶴次郎(くぼかわ・つるじろう、1903-1974。静岡県菊川市出身の文芸評論家。石川啄木の研究でも著名)は「石狩川」(新潮文庫)の解説で「―本庄のたどった道、その着々と屈することなくすすんでいったコースには、確固たる沈黙の意思と方向が明瞭に見出される。

その意志と方向は、藩政に反対して九州の北端(”佐賀藩”を指す)から北海道に新たな天地を求めて苦難の人生に立ちむかった父の意志とその眼ざした方向に、一族のその後の刻苦のたたかいを通じて血筋をひいているに違いない―」と述べている…

 

果てしない荒れ地を切り開き、現在の近代的な姿に変貌させた人々の労苦というのは想像もつかぬことであることは相違ない事実だと思いますし、また、文中にあるように、さまざまな立場、身分の人々がはるばる渡道して来たその背景、また人間模様というのも、これをひもといて行くと実にさまざまなものがあったのだなと、つとに考えさせられます。

 

 

さて、改札口に戻りますが、発車まではまだ20分以上時間があります。

ここで小休憩することにしましたが、次から次へと乗客が改札前に集まって来ます。

ここまであまり目にすることのなかった、大変繁華な印象を受けます。

 

 

改札がはじまった直後にホームへと降りて来たのですが、これがまたすごい強風でした。一向におさまる気配がありません。

 

 

ところで、この「当別」の地名由来は、アイヌ語「トー・ペッ」(沼から来る・川)と言われています。

先ほどの「各駅停車全国歴史散歩」の記述の中にもありましたが、「蛇行する石狩川と、長い時間の経過で流れが変わり、そこに出来た湖沼の姿」を現したものなのでしょうか。

 

そして、ほどなく「普通 札幌ゆき」が到着。隣の「北海道医療大学駅」始発の列車でした。

多数の乗客がホームで待っていまして、座席がほぼ埋まりました。

 

 

「石狩当別駅」を発車。しばらくは、引き続きのどかな田園の中を走ります。

ただし「空知平野」から「石狩平野」へと場所は変わっていまして、「石狩川」を渡るといよいよ「札幌市内」に入ります。

 

次回に続きます。

今日はこんなところです。