みなさんこんにちは。前回からの続きです。
「近鉄特急で令和最初の伊勢志摩を巡る」と題して、先月に伊勢志摩を日帰りひとり旅した際の様子をシリーズでお送りしています。
乗車しているのは「特急 賢島ゆき(三重県志摩市)」。
「松阪駅」を出て、30分ほど走ったところでしょうか。視界が一気に開け、車窓に美しい海が見えて来ました。
「伊勢湾」から、徐々に海岸線が入り組んで来た「鳥羽港」です。
14時45分、「鳥羽駅(とばえき、同鳥羽市)」に到着。
古くから風光明媚な名勝として知られた、リアス式海岸で有名な「志摩半島」の北東部にある都市です。
それでは、この「鳥羽」については…このシリーズではたびたび登場、
「各駅停車全国歴史散歩21 三重県」(中日新聞三重総局編・河出書房新社刊 昭和56年10月初版 絶版)から拾ってみます。
突っ走る”国際観光” 鳥羽
真珠と海女のふるさと
明治の文豪・田山花袋(たやま・かたい、1872-1930。群馬県出身の小説家。紀行文の作品も数多く存在する)ががつて”志摩松島”と絶賛した鳥羽浦は、国鉄参宮線の終点・鳥羽駅の目の前にあった。
白砂青松の続く海岸線、点在する島影は見る人の目をみはらせ、すぐ近くで聞こえる磯笛が旅情を誘ったものだ。
「近鉄鳥羽駅」から、隣接する「JR鳥羽駅」を望む。ちょうど「快速みえ号 名古屋ゆき」が発車待ち中。
国鉄鳥羽駅は明治四四年七月二一日、山田(現在の伊勢市駅)-鳥羽間の開通で営業を始めた。
木造のしゃれた駅舎で、鉄道開業に努力した真珠王の御木本幸吉(みきもと・こうきち、1858-1954。鳥羽出身。日本の真珠養殖の第一人者。装飾品を扱う「ミキモト」の創始者)や当時の鉄道院総裁の後藤新平(ごとう・しんぺい、1857-1929。現在の岩手県出身の政治家。台湾総督府・満鉄総裁などの要職を経て、鉄道院総裁として、全国各地の鉄道網整備に尽力した)も開通式に出席。鳥羽の人たちは町をあげて開通を喜んだ。
鳥羽は真珠と海女のふるさととして観光発展を指向していた。それだけに鉄道が必要だった。
その後、大正六年に鳥羽駅前の日和山(ひよりやま)、樋の山(ひのやま)が開発され、観光旅館が営業を始めた。
昭和二年には遊覧船が発足、鳥羽湾めぐりがはじまった。
「1968(昭和43)年10月 交通公社の時刻表」より、当時の近鉄特急の時刻表。
大阪・名古屋からの「伊勢特急」は「宇治山田駅(同伊勢市)」止まりであることがわかる。
同じく、巻頭の索引地図より。
近鉄は「宇治山田駅」と「鳥羽駅」の間がつながっていない。この間が結節されて、大阪・名古屋・京都方面から鳥羽・賢島方面への直通列車が運行されるようになったのは、この2年後の1970(昭和45)年3月。
それまでは、大阪・名古屋・伊勢方面から鳥羽・志摩方面へのアクセスは「国鉄(現在のJR)」が主だった。
出典同。「鳥羽~賢島間」の「志摩線」は、当時は他の近鉄路線とは孤立したローカル線だった。
同四年には志摩電鉄(現在の近鉄志摩線)が鳥羽から賢島(かしこじま、同志摩市)まで開通、奥志摩へ初めて電車が走った。
同九年には日和山エレベーターが開業、高さ五一㍍の観光塔と展望台は当時の観光施設の唯一の目玉として人気を集めた。
出典「鳥羽市観光情報サイト」より。当時の「国鉄鳥羽駅」の真横、日和山(ひよりやま)にそびえるのが「日和山エレベーター」。
海岸線が線路のすぐ横まで迫っているのがわかる。
なかなか、度肝を抜かれる無骨な「エレベーター」なのですが…
ここからは、毎度おなじみ「Wikipedia #日和山(鳥羽市)」から拾ってみます。
日和山エレベーター(ひよりやまエレベーター)は、三重県鳥羽市にかつて存在した観光用のエレベーター及びその運営を行っていた株式会社。
1933年(昭和8年)2月26日に日和山エレベーター株式会社が設立され、翌1934年(昭和9年)7月にエレベーターが完成した。
麓の鳥羽駅前と日和山山頂を連絡するもので、51mの高さがあった。当時の料金は片道5銭だった。
建設された当時は鳥羽を訪れる観光客が増え始めた頃に当たり、鳥羽の観光の幕開けとも言える存在であった。1943年(昭和18年)10月7日から太平洋戦争に伴う電力消費規制により運転を休止、1947年(昭和22年)3月1日に営業を再開した。
鳥羽を訪れる観光客をはじめ、地元の子ども達の遠足スポットとして親しまれたが、1974年(昭和49年)1月6日に鳥羽駅で起きた火災でエレベーターも焼失してしまう。
以後営業休止の形をとったが、その後再建されることなく1982年(昭和57年)9月30日に解体、撤去された。
ということで、「エレベーター」というものの、鳥羽湾を一望出来る「展望塔」として名物だったようです。
ちなみに、「日和山」という名称の由来は、湾内を俯瞰することが出来たので、船頭さんが海の様子をここから「日和見」していたことから来ているのだそうです。古くから、海上交通が盛んであったことが窺えるエピソードです。
さらに出典同。「紀勢本線・参宮線・関西本線」のページより。
鉄道は鳥羽へ多くの観光客を運んだ。戦後は東京行き急行「伊勢号」も運転され、利用客はうなぎのぼり。
昭和三五年には国鉄鳥羽駅利用の観光客は一〇〇万人を超え、三八年には一六〇万余人と最高を記録した。
石坂洋次郎(いしざか・ようじろう、1900-1986。青森県出身の小説家。戦後すぐに小説「青い山脈」を発表、映画化で人気を博し、著名な作家となる)の『若い人(石坂の代表作のひとつ。映画化され、吉永小百合や桜田淳子らが主演した)』に描かれた女学生・江波恵子らが修学旅行で訪れ「日和山から見る鳥瞰図はクレパス画の輝き、アイスカルピスの颯爽たる味覚。志摩の海底深く真珠貝の美しい幻想をこめて、沖合はるか夢みるように横たわる渥美半島(注釈:あつみはんとう。鳥羽から伊勢湾を隔てた愛知県東部に延びる半島)…」と称賛したながめは昭和初期のものである。
白砂青松が白亜のビル街
戦後、鳥羽・志摩は国立公園に指定された。昭和二六年には御木本真珠島、三〇年には鳥羽水族館が開館、観光施設が増えた。旅館の新築も目立ち、国鉄鳥羽駅から大鳥居をくぐって岩崎町に通じるみやげ物店街は四季を通じ観光客でにぎわった。
三五年には鳥羽市を訪れた観光客は一七八万八〇〇〇余人。半数以上が国鉄利用だった。
しかし、三〇年後半には主役交代の兆しが。三九年には伊勢湾フェリー(鳥羽-伊良湖間)が就航。マイカー時代の波が押し寄せてきた。
それとともに自動車道路の拡張など対応に迫られた。しかし、狭い地形の鳥羽にとって道路の拡張は容易なことではない。
昭和四一年、鳥羽港湾整備事業で、これまで親しまれてきた白砂青松の海岸を埋め立て、国道も駅より海側に迂回となった。
昭和四五年には近鉄志摩線が全線開通。名古屋、大阪から鳥羽、賢島へ特急電車が乗り入れた。
近鉄開通後一年間の観光客は六二万六〇〇〇余人。これに比べ国鉄利用者は一六万二〇〇〇人。最盛期のほぼ十分の一に激減した。四九年一月六日には伝統ある駅舎が火災で全焼するという憂き目にも遭った。
この火事で日和山エレベーターも焼け、戦前数十万人が利用した施設も、この日限りで運転を中止した。
年間観光客は五〇〇万人
いま、鳥羽駅前は夕方になると各旅館やホテルの送迎用バスがずらりと並ぶ。
駅から吐き出された観光客はにぎわう駅前広場、目の前を走る片側三車線の国道、鉄筋コンクリート建ての土産物店をながめ「鳥羽は立派になった。さすが国際観光文化都市」と感心する。
しかし、昔の情緒を知る人は、波の音の聞こえたなぎさがなくなり、緑の山々を切り崩して建つコンクリートの大型建造物に「かけがえのないものを失ったような気がしてしょうがない」という。(後略、出典同 P198-199)
次回に続きます。
今日はこんなところです。