大津市歴史博物館 ミニ企画展「江若鉄道-思い出の品々-」展を見に行く その5 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。

 

 

先日まで「大津市歴史博物館(滋賀県大津市)」で開催されていた、「江若鉄道(こうじゃくてつどう)-思い出の品々-」展を拝見しに行った際の様子をお送りしています。

 

 

滋賀県、湖西地域の重要な交通手段として利用されていた「江若鉄道」ですが、シーズンになりますと、沿線では「びわ湖」の水泳場、豊かな自然が広がる「比良山系」への観光客が京阪神からどっと押し寄せたと言います。

 

特に夏シーズンになりますと、沿線各地の水泳場へ向かう多数の観光客を輸送するために、このようにディーゼル機関車がたくさんの客車を牽引した臨時列車が多数運行されていました。

 

 

また夏だけではなく、通年に渡って自然を満喫出来る、京阪神最大のレジャー地が展開するという、恵まれた立地条件の沿線でした。 

 

 

展示にあったのは、「比良山系」への登山者を対象にした、臨時列車「比良号」です。 

青い山々をモチーフにした特製のヘッドマークが掲出されていたのですが…

 

 

こちらは「京阪特急」に掲出されていた「比良」ヘッドマーク。

「江若鉄道」は、戦前からびわ湖西岸の観光事業で京阪と連携していて、戦後には京阪グループの傘下に入っていました。

 

 

これも、今回の展示にあったもの。

「江若鉄道 近江舞子駅(おうみまいこえき、同。当時は滋賀郡志賀町)」で使用されていた運賃表。

 

 

「京阪線連絡」の乗車券が発売されていたことがわかる(「淀屋橋・北浜」の駅名が表記されているので、京阪電車が両駅へ地下線で延伸開業した昭和38(1963)年から、江若鉄道自体が廃止された昭和44(1969)年までのものと推測される)。

「グループ会社」ということから、京阪電車・江若鉄道双方からこのように「連絡乗車券」が発売されるなど、関係性が大変高かったようです。

 

「比良号」の話しに戻りますと、

「大阪(淀屋橋・天満橋)→京都三条」 (京阪特急)

「京都三条→浜大津」(京阪京津線急行)

「浜大津→比良方面」(江若鉄道「比良号」)

 

という形で、大阪・京都方面からの接続が図られ、該当する連絡列車には「比良」のヘッドマークが掲げられていました。

乗り換えが必要なものの、「大阪都心・京都・びわ湖」という、広域な鉄道ネットワークが存在していたのですね。 

 

 

その「江若鉄道」も、路線が殆ど重複する「旧国鉄湖西線(こせいせん)」の建設計画が持ち上がり、それと代替えする形で、昭和44(1969)年11月に惜しまれながら、「浜大津~近江今津間」の全線が廃止されました。

(出典 「京阪電気鉄道100周年記念誌 京阪百年のあゆみ」 京阪電気鉄道株式会社 経営統括室経営政策担当編 京阪電気鉄道株式会社刊 2011年3月 P260)

 

 

「JTB時刻表 2019年3月号」より。

 

その「湖西線」は「山科駅(やましなえき、京都市山科区)~近江塩津駅(おうみしおづえき、滋賀県長浜市)」を結び、江若鉄道の廃線の5年後、昭和49(1974)年に開業しました。路線の一部では、江若鉄道の路盤を流用した区間も多く見られます。

 

「非電化・単線」の江若鉄道とは路線の趣きがまったく異なり、京阪神と北陸とを短縮するために建設されたという目的であったため、全線にわたって高架化され、踏切がいっさい存在せず、それゆえ開業時から特急列車などで高速運転がなされています。

現在では「特急 サンダーバード」が疾走している路線のひとつです。

 

 

 

 

50年近くにわたり、地域住民やびわ湖への観光客の輸送に当たった「江若鉄道」が廃止された際の写真も展示されていました。

こちらは「さよなら列車」、手作りの装飾を見るに、地元の人々から愛されていた存在であったことが窺い知れます。

 

 

 

路線の全線廃止に当たって、遺されたディーゼル車両の一部は、各地の地方鉄道に譲渡されたものもありました。

 

こちらは「岡山臨港鉄道」(昭和59年12月に路線廃止)へ譲渡されたもの。

大規模な改造によって「アイスホッケーのお面」と称された「キハ12」車両でした。

先日の記事でも述べましたが、戦前から当時としては最先端の技術を用いた高性能な車両が多かったため、譲渡された後も平成に至るまで活躍した車両もあったとのこと。

 

次回に続きます。

今日はこんなところです。