初秋の筑前・筑後をひとり旅2019 その69 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。

初秋の頃、頂いた連休で福岡県、筑前・筑後地方をひとり旅した際の様子をお送りしています。

 

 

ひとり旅の最後は「福岡空港(福岡市博多区)」を散策しています。 

 

 

ターミナルビルから外へ出てみます。時刻は7時前になっていました。

日の入りが遅い九州と言えども、初秋だったこの時間になりますとさすがに夜のとばりが下りて来る頃になります。 

 

 

 

再び、ターミナルビル内へ戻りますと…

ここからは、北部九州の各方面に直通のリムジンバスが運行されているようです。

地下鉄でのアクセスも便利な上に、バスの便も充実しているとは、本当に便利な「福岡空港」なのだなと、あらためて感心します。

 

 

さて、まだ時間には余裕があります。続いてやって来たのは、国内線ターミナルビル4階です。 

 

 

せっかく空港へやって来たので、展望デッキに行ってみようかという魂胆?です。 

 

 

出発ロビーのない階でしたので、あまり人通りのないフロアを進むと…レストランの厨房横に「展望デッキ」の文字を発見。 

 

 

狭い階段を登りますと、そこが「展望デッキ」でした。

陽も傾き、夕涼みにはもって来いです。いや、たくさんの人でにぎわっています。 

 

 

それでは、ここで少しばかり飛行機を観察して行くことにします。 

 

 

 

 

 

徐々に暗くなって来ましたが、飛行機は次々に着陸して行きます。列を成している姿は見ているだけでも楽しめます。 

 

 

こうして、飛行機の発着を観察するというのも旅気分に浸れて、いいものもだなと感じた次第です。

 

 

満足したところで、建物内に戻りますと…

この「福岡空港」の概要を記した展示がありました。

 

「福岡空港」は当初、「席田(むしろだ)飛行場」という名称で開業したとのこと。

かつては「板付(いたづけ)飛行場」と呼ばれていたのは知っていたのですが、これは知りませんでした。

「席田」という難読な地名の歴史は古く、かつては「筑紫郡(ちくしぐん)席田村」がこの周辺の所在地であったことが命名の由来だったようです(現在の「福岡市東区・博多区・糟屋郡志免町=かすやぐん しめまち=」に相当)。

 

 

毎度おなじみ「Wikipedia #福岡空港」で調べてみますと、

 

昭和19年(1944)2月 

帝国陸軍航空部隊の飛行場として建設を開始。当初は席田飛行場(むしろだひこうじょう)という名称だった。当時249町歩の耕地が潰れ、314戸の農民が農地を奪われた

1945年4月に沖縄に上陸したアメリカ軍の偵察が主任務とされた。

 

とありました。もとはアジア・太平洋戦争に関連した、陸軍の施設だったのですね。戦後は米軍に接収され「板付基地」となったとのこと。

 

 

その後、接収は解除されて昭和47(1972)年に「板付飛行場」から現在の「福岡空港」へと名称が変更され、九州の玄関口として発展して来ました。 さまざまな経緯があったことに少し驚きます。

 

 

ターミナルビルに戻りまして、再度出発便の様子を確認してみます。もう各地への最終便が掲示される時間になっていました。 

 

 

大阪への最終便は「21時15分発 APJ(ピーチ・アビエーション)160便 関西空港ゆき」

伊丹は通常21時以降は離着陸が出来ないので、この時刻になりますともう関空ゆきです。 

 

その後の最終はやはり「東京便」でした。それもこれまた便利な羽田ゆきですから、ちょっとうらやましい。

 

 

そういったことで、実に楽しい「福岡空港」でした。

ただ、これだけ楽しんだのにも関わらず、今回の帰路は「山陽新幹線」で帰阪するという(笑)

取り急ぎ、再び地下鉄の駅へと向かいます。 

 

次回に続きます。

今日はこんなところです。