みなさんこんにちは。前回からの続きです。
大阪近郊の支線巡り、今回は大阪・奈良府県境の「信貴山(しぎさん)」へ向かう「近鉄信貴線」と「西信貴ケーブル線」を巡っています。

さて、ケーブルカーで山頂の「高安山駅(大阪府八尾市)」へやって来ています。展望台から一望出来る大阪平野の景色に見とれてしまいましたが…

その駅の構内を外れたところに、なんと「電車が走ってました!」というこの「旧高安山駅」という案内を発見。
しかし、ここはケーブルカーで登って来た山の上。ここでまたケーブルカーに乗り継ぐのではなく、これは「普通の鉄道」だというのです。

跡地と記されているホーム。一面のみコンクリート土台が遺されています。

詳細な説明がそのかたわらにありました。

このホームに発着していたのは「信貴山急行電鉄」という路線でした。
「信貴山急行電鉄」は昭和5(1930)年、ここまで乗車して来た「西信貴ケーブル」と同時に、山頂の「朝護孫子寺」への参拝客輸送を目的にケーブルカーと接続する形で開業した、世界でも他にはスイスにしか例のないという「ケーブルカーで山を登ったところで接続していた普通の鉄道」なのだとのこと。

現在では、駅前から信貴山霊園・朝護孫子寺へ至る「信貴生駒スカイライン」がその路線跡をトレースしているそうです。
ところで、戦前という技術がさほど進んでいない時に、どうしてこのような特殊な形態の鉄道を建設するに至ったのかというと…

信貴山の奈良側、「信貴山下駅(奈良県生駒郡三郷町)」から「朝護孫子寺」に近い「信貴山駅(同)」まで山を登っていた、同じ近鉄の「東信貴ケーブル」。
信貴山への主要アクセスとしての地位を「西信貴ケーブル」に奪われ、昭和58(1983)年に廃止された。Wikipedia「#近鉄東信貴鋼索線」より。
昭和に入り、古くから多くの参拝客があった信貴山の旅客需要を見込み、先ほどの信貴山急行電鉄に8年先んじて、奈良側から「信貴生駒電鉄(現在の近鉄生駒線・京阪交野線を建設した会社)」が「東信貴ケーブル」を建設させるなど、当時、大阪や奈良、京都方面から信貴山への輸送においては熾烈な乗客の争奪戦があったようです。

「東信貴ケーブル」の山頂側だった「信貴山駅(同)」。
廃線から35年経過した現在も駅舎が保存されている。出典同。
そんな中、「朝護孫子寺」の近くに「信貴山駅」を設けた「東信貴ケーブル」に対し「西信貴ケーブル」は山の上の「高安山駅」から少し距離があるということもあって、スムーズな旅客輸送のために「山上の鉄道」が建設された、という経緯があったとのこと。
(参考)
八尾市ホームページ「高安山上を走っていた電車」

ここで気になるのが、こんな山の上にどのようにして鉄道車両を搬入したのか…ということです。その搬入の様子の写真もありました。
なんと、先ほど登って来た「西信貴ケーブル」の線路を使って、ふもとの「信貴山口駅」からひっぱり上げて来たとのこと。
結構な急勾配なのにも関わらず、こんな荒業?をしてしまうとは…すごい。

この「山の上の鉄道」こと「信貴山急行電鉄」は、昭和19(1944)年に国から「不要不急路線」に指定され休止(路線の正式な廃止は昭和32年)され、姿を消しました。
ケーブル線を使って山の上にひきあげられた車両は、再び山を降り、昭和52(1977)年まで同じ近鉄の伊賀線(三重県伊賀市)で活躍したそうです。

そういうことで「世界的に見ても希少な山の上の鉄道の唯一の遺構」というと、あらためてすごいものだったのだなと感じます。ですが、いまは人知れず静かに鎮座しているのみです。


ホーム跡には、古びた鉄骨の柱の痕跡も。

線路があった跡からホームを望む。草木が繁るがままの姿です。

そして、その遺構のかたわらには、山上の鉄道をトレースして走る「近鉄バス」のバス停があります。

こうして見ますと、バス停がまるでプラットフォームのように感じます。

バスは先ほど出て行ったばかり。ケーブルと同じ40分おきの運転、ということはケーブル線との接続が整然と取られていることがわかります。

そんなこんなで、思わぬ遺構を発見することが出来ました。
しかし、あの急勾配でよくぞ重い車両をひきあげたなあ、と感心しきりです。実際にひきあげるところを見て見たかったものです。

それでは、折り返しのケーブルカーで山を降りることにします。
次回に続きます。
今日はこんなところです。