みなさんこんにちは。今日の話題です。
手元にある人気鉄道模型シリーズ「鉄道コレクション」を愛でながら、あれやこれやと語るということをしています。

今日取り上げるのは、ブラインドパッケージ(開封するまでどの車種か分からない)の第17弾として発売された「京阪電気鉄道大津線350形」です。
果たして、どのような車両なのでしょうか。

さて、タイトルの「大津線」とは、京阪の中でも京都・大津を結ぶ「京津線(けいしんせん)」、大津市内を南北に結ぶ市内電車「石山坂本線(いしやまさかもとせん)」の2路線を総称したものです。
車両や路線規格は大阪・京都を結ぶ「京阪線」よりひとまわり小さく、車両も約15m級とこじんまりとしたものですが、整った近代的なデザインのものが揃っていて、変化に富んだ路線状況ともども鉄道趣味的に人気のある路線です。

それでは、主題の「350形」をあれこれと見て行きたいと思います。両開き扉が2枚、小柄ながら整ったスタイルです。先ほど述べた「大津線」の中でも、日本最大級の急勾配がある「京津線」での運用には車両機具が対応しておらず、専ら平坦な「石山坂本線」で運用されていました。

これを正面から。
「大津線」には道路を走る併用軌道区間があるということで、特徴的な排障器(スカート)が取り付けられているのが目につくところでしょうか。
また正面のこの顔つき、製造がはじまった昭和40年代前半の「京阪線」の車両とよく似ています。
「大津線」には道路を走る併用軌道区間があるということで、特徴的な排障器(スカート)が取り付けられているのが目につくところでしょうか。
また正面のこの顔つき、製造がはじまった昭和40年代前半の「京阪線」の車両とよく似ています。

ところで、商品のモデルになっているのは「350形」の中でも「351号車」という車両です。
実は近年まで、この車両はあることで「京阪唯一」の車両でした。
側面を見てみますと、両側に運転台が取り付けられています。
この車両、平成6(1994)年に廃車になるまで「京阪最後の両運転台つき車両」として知られていました。
この車両、平成6(1994)年に廃車になるまで「京阪最後の両運転台つき車両」として知られていました。

この車両が運用されていた「石山坂本線」では、営業列車は2両固定編成化されていることもあり、半端車となっていたこの「351号車」は、晩年は営業運転に入ることはなく、所属している「錦織車庫(にしごおりしゃこ、滋賀県大津市)」で構内入れ換え車として余生を送っていたそうです。

続いて、パンタグラフのついている運転台側です。
小柄な車体に比してパンタグラフがとても大きく見えます。

ところで、この形式は昭和41(1966)年から製造が始められた車両です。
それにしては、時代に比して実に旧型の台車(アメリカ・ブリル社の台車をコピーした「日立製M1台車」)を履いていることに気づきます。
それにしては、時代に比して実に旧型の台車(アメリカ・ブリル社の台車をコピーした「日立製M1台車」)を履いていることに気づきます。
これは気になるなということで…

こちら「カラーブックス日本の私鉄7 京阪」
(奥野行男・野村菫・諸河久共著 保育社刊 昭和56年初版)
から、そのあたりの経緯を拾ってみます。
幼少の頃買い与えて貰ったものですが、ご覧の通り、穴が空くほど読み倒したものですから、もうボロボロな状態です。わたしの「京阪好き」のバイブルになった、思い出のある本です。

ページをめくって行きますと…これは懐かしい。当時、京阪のフラッグシップ的な存在だった「テレビカー」こと「旧3000系」が大写しになっていました。
いまは地下線になった、京都市内の鴨川沿いにあったターミナル駅「三条駅(京都市東山区)」を出発、大阪へ向かおうとする姿でした。
川沿いに満開の桜が、なんとも情緒があります。
駅を出て行く特急の向かって右後方、なにやら白い幕が張られているのが見えますが、ここには地下線工事に伴って使用中止になった1番線がありました。

さて、くだんの「350形」ですが…
2両編成で、軽快に「石山坂本線」を走る姿です。滋賀里~穴太間にて。

この「350形」は「石山坂本線」の前身、「琵琶湖鉄道汽船」で登場した「100形(→改番され800形、後に京阪線へ転出)」の機具を流用して製造されたというくだりがあるではないですか。

では、その「琵琶湖鉄道汽船100形(→京阪800形)」についてのページを見てみます。
「石山坂本線」はもともと北半分が「琵琶湖鉄道汽船」、南半分が「大津電車軌道」の手により開業したのですが、その北半分、つまり「琵琶湖鉄道汽船」は「郊外電車」として大津市内中心部から湖西方面へのさらなる延伸を画策していて、路線も極力直線区間とし、車両もこの時代にすれば大型のものを使用して運用されていました。

両者が京阪へ合併後、路面電車規格で建設された「石山坂本線」の南半分、「大津電車軌道」との連結がなされたのですが、この「100形」は大型な車体がゆえ、路線の南半分への入線が出来ず、同等の路線規格だった「京阪線」へと昭和4(1929)年から転出して行きました。

この「100形(→800形)」、なかなかユニークな車両だったようで、車内には「クロスシート(窓に直角にシートが設けられている)」と「ロングシート(窓に背を向けてシートが設けられている)」双方を兼ね備えた、時代を先取りするようなハイブリットな車両だったようです。

そして、こちらが「京阪線」転出後の姿。「800形」と改番されています。
特徴だったシートはすべてロングシートに取り替えられ、木造・非貫通ということで淀屋橋地下線への乗り入れも出来ず、晩年は「枚方市駅(大阪府枚方市)」から分岐する、支線の「交野線(かたのせん)」で昭和42(1967)年まで活躍したそうです。やはりというか、特徴的な台車に見覚えがあります。

「800形」の廃車後、台車を含めた床下機具が余剰となったのですが、それを活用し、新製した車体を載せたのが「350形」でした。
先ほど触れたように「石山坂本線」の前身「琵琶湖鉄道汽船」の車両として活躍していたものが、縁あって再び「石山坂本線」の車両として生まれ変わることになりました。「車両機具の里帰り」といったところでしょうか。

ところで、こちらは「錦織車庫」に佇む、現在「石山坂本線」の主力車両となっている「700形」新旧塗装の2編成です。
この話にはさらに続きがありまして、その「350形」が製造から30年弱経過した平成4(1992)年、今度は「350形」の車体を流用・改造し新しい車両機具に載せて登場したのが、この「700形」でした。

正面の顔つきなどは大きく変貌しましたが、側面の両開き2枚扉の配置などは、まさに「350形そっくり」です。

こちらは、新塗装になった「700形」、穴太にて。

「大津線」の前身、「琵琶湖鉄道汽船」の車両として颯爽と登場したものの、あまりのオーバースペックだったがゆえに「京阪線」へと転出、さらに廃車になった後に機具や台車が「里帰りした」というだけでも縁を感じるものですが、さらに車体が流用され、現在も生まれの地で活躍しているということにも、いわばこれら「100形→800形」と「700形」車両のかすがいのような存在になった「350形」には、実に不思議な縁を感じた次第です。
このようにして車歴を掘り下げることでさまざまな経緯が見えて来るというのは、実に興味深いものだなと感じます。
今日はこんなところです。