阪和電気鉄道 昭和初期の面影 その39 「企画展 昭和の一大観光地砂川」と「砂川遊園・砂川奇勝」 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。

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府の南部「泉南市(せんなんし)」の「埋蔵文化財センター」で開催されている「企画展 昭和の一大観光地砂川(すながわ)」と、そこで「一大観光地」と称された「砂川遊園・砂川奇勝(きしょう)」について取り上げるということをしています。

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会場で頂いた、その「砂川遊園」に関する展示の概要がまとめられたこのリーフレットに沿って、前回から項を進めています。次は「成熟期」。

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「昭和6(1931)年」に「大阪・和歌山間の全通」を果たした「阪和電気鉄道」の沿線には、展示されている数々のリーフレットを見ると、実に自然豊かなところが多かったようです。

「信達駅(しんだちえき、のちに阪和砂川駅。現在のJR和泉砂川駅)」近くには、梅林や温泉のほかに「砂川奇勝(すながわきしょう)」という、自然が育んだ名勝が古くからありました。

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その「砂川奇勝」を含む広大な敷地に、「阪和電気鉄道」が設けたのが「砂川遊園」です。「昭和10(1935)年」のことでした。

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会場に大きく掲げられた、遊園地の開業間もない地図を見ますと…
最寄りの「阪和砂川駅」を出ると、花に囲まれた四つの大きな池のほとりを過ぎたところに、モンキーハウス、サイクリング、飛行機塔、演芸場…など、たくさんの遊戯施設があったことがわかります。

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駅前や施設内には名物の「食堂」もあり、人気を博したといいます。
しかし、右側の写真…すごい人出です。
おそらく、遊園で遊んだ人々が帰路に就こうと、駅に向かっている光景だと推測されるのですが、現在で言うと大げさではなく、まるで「USJからユニバーサルシティ駅への帰路」を彷彿とさせます。

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隆盛を誇った「砂川遊園」ですが、時局は戦争の時代に突入します。
そんな中、親会社の「阪和電気鉄道」が開業時からのライバル「南海鉄道(現在の南海電鉄)」に合併されてしまいます。戦色濃い「昭和15(1940)年」のことで、国の意向が大きく働いたものだったようです。

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「南海鉄道」に合併された直後の、案内リーフレットを展示に見つけました。

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大阪市内、「南海天王寺駅」から延びるのが「山手線」と改称された「阪和電気鉄道(青い↓)」。一方の「南海」は「難波駅」、そして「汐見橋駅(しおみばしえき、大阪市浪速区)」に終着駅があり、合併により都合「大阪市内に3つのターミナルが出来る」という、大規模な合併劇だったようです。

そのターミナル駅のひとつ「汐見橋駅」についてはこちらもどうぞ↓
当ブログ
「なにわ筋線 実現へ前進!変貌するJR難波駅周辺の鉄路を巡る その6」
(2017年5月24日アップ)

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この頃、「阪和砂川駅」は「砂川園駅」と改称されていたようです。
アジア・太平洋戦争を直前に控えたこの頃、物見遊参の類の施設は閉鎖に追い込まれることが多かったという当時ですが、地図にはしっかりと「砂川遊園・砂川奇勝」の文字が見られます。

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戦争が激化するとともに、園内の遊具などは「鉄材供出」によって撤去され、広大な花畑は芋畑に姿を変えてしまったと、記述にありました。

「南海山手線」となった「阪和電気鉄道」は「昭和19(1944)年」、さらに国策により南海から分離して「国鉄阪和線」となり、そして終戦。
「砂川遊園」は、世情が落ち着きを取り戻すとともに「再生期」へと入ります。

次回に続きます。
今日はこんなところです。