松阪晶子さんのデビューシングル「まっすぐに」の魅力を語る 前編 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。今日の話題です。
 
さて、わたしのブログは、長年、わたしが心の支えにしているシンガーソングライター・松阪晶子(まつざか・しょうこ)さんの楽曲の一節から「ありのまま生きてこう 自分を磨きながら」という「タイトル名」を頂いています。
そういったことで、晶子さんの楽曲の世界の魅力を、みなさんに少しでもお伝えしようという試みをしています。
 
 
イメージ 1
 
平成5(1993)年6月2日、シンガーソングライター・松阪晶子さんはこの「まっすぐに」で「メジャーデビュー」しました。そういうことで、この楽曲はわたしが敬愛する晶子さんの記念すべき「デビュー曲」でもあります。
 
イメージ 2
 
「まっすぐに」は、しっとりとした、まるで切々と、優しく諭されるようなバラード調の悠然とした楽曲です。
 
「まっすぐに見つめることは/誰にも出来ること/戸惑いを吐息でほどいて/愛を探して歩こう」…
と続く歌詞には「人間らしく生きて行くことには、なにが必要なのか」ということがその根本にあり、そして、それに対しての葛藤や、さまざまな不安をも実直に歌い上げた名曲です。
 
では、「シンガーソングライター・松阪晶子の誕生」という記念すべき歴史の一ページと、「民謡」からはじまった晶子さんの音楽人生が「ロックミュージック」へと進んだ経過や音楽観について語られた様子を、デビュー当時のインタビュー記事から、いくつか拾ってみたいと思います。
よろしければどうぞおつきあいください。
 
イメージ 3
 
松阪晶子「まっすぐに」
お母さんの胎内にいるときから歌っていたに違いない、と思わせる強力な歌姫・松阪晶子。誰かが話す知らない街も自分の内にわき起こる気持ちも、彼女は本能的にその表現方法を知っていて、イメージを膨らませてゆく。
 
彼女にとって音楽は睡眠や食事と同じなのだ
 ”たがが音楽、されど音楽!!”というくらいに、音楽というヤツは、人間の生活の中にけっこう大きな影響を与える存在だったりする。この音楽を自分の生業にしようとする要因には、先天的なものと後天的なものがある。
後天的なのは、何かの音楽を聞いて強い衝撃を受け、人生までも変わってしまったとかいう場合。先天的なのは、いうまでも持って生まれてしまったというヤツ。
 
イメージ 4
 
 この6月2日に「まっすぐに」というシングルでデビューした松阪晶子は、いわゆる先天的タイプのアーティストだ。なんてったって父は民謡の歌い手、母は民謡の舞い手というのだから、ジャンルはともあれ、音楽の血を生まれながらに持っていたヤツということになる。
 
 ”幼い頃から歌を愛し!?歌うことなくしては毎日を語れないほどの音楽好き”とデビュー前に貰った資料に書いてあったけれど、民謡、歌、音楽が生活の一部となっていたのだから、これはもう理屈じゃない。彼女にとっての音楽というのは、食事や睡眠と同じところに、あったわけだ。
 
「3歳から歌と踊りをやっていたんだけど、考えてみると、もう、お母さんのお腹の中にいたころから…いわゆる胎児状態のときから音楽に触れていたわけなんだよね。で、3歳から本格的に習いはじめてたんだけど、それというのも、お父さんがお弟子さんに教えていた民謡を、自然に私が覚えちゃってね、教えていないのに歌ってたんだって(笑)」
 
 ”三つ子の魂 百まで”とはよく言ったもんだ(とインタビューの時にポロッと言ったら”パパと同じことを言う”と彼女はケラケラと明るく笑っていた)。たとえ、この道(ロック)にきていなかったとしても、彼女はきっと音楽をしていたのだろう。
 
 さて、そんな彼女が、このロックってヤツに目覚めたのは中学のとき。
「それまで箱入り状態スパルタ状態で民謡しか知らなかったのね。ところが中学に入ってレベッカに触れて、パートが一気にガンッと音楽になっているというのに出会って、ものすごい不思議というか、ショックを受けて、そのままドボドボッとハマっていっちゃったんですよ」
 
 旋律と伴奏だけで成立していた民謡の世界からアンサンブルの衝撃を受けた彼女。おりしも時代がバンド・ブームであったということも、運命のイタズラだったのかもしれない。もちろん学校の仲間たちとバンドを結成。高校2年までの5年間、そのバンドの活動は続いたという。
 
「一挙にバンド・サウンドというものが自分の中に入ってきちゃったから、すべてのことをやりたくて、ドラム、ベース、ギターって、全部体験してみたの。でも結局、自分には歌だな!と思ってね。とにかくバンドの仲間といるという状況が楽しかったよね。ただうまいだけじゃなくて、ブレイクの決めとかが全員でバシッと決まる瞬間とか、こう音が、ビートが一緒になってる、というのが、たまらなく気持ちよかったよね」
 
 ボン・ジョヴィ、ヴァン・ヘイレン、Show-Ya、レッド・ヴォーリアーズといったものをカバーしていたという。”ただきれいというよりも、パワーがあってトゲがあってちょっとイカレてるのが好きだった”という彼女だが、近ごろはジャズに心を動かされて始めているという。その瞬間瞬間に自分の中でとらえたものを、どんどんストレートに表現していきたいという彼女。
 
「とにかく明るくて、パワーは誰にも負けないのね。だから私のライブを見たら、”たまらない!”という状態にする自信はあるんだ。というのも、私って、みんなが楽しく幸せになってくれるのが好きだから」
 
(「What's in」1993年7月号 P155 より/文・河合 美佳)
 
本文の通り、晶子さんは、民謡の歌い手である父、踊り手である母のもとに生まれ育ちました。そこから、劇的に「ロックミュージックへの転身」を遂げたという経過がよくわかったのですが、いずれにしても「音楽」を愛し、歌うことを「無上の歓び」に昇華させていたことに、それへの情熱を強く感じます。

それとともに、ここからはじまる「シンガーソングライター・松阪晶子」への期待をも予感させる内容でした。
では、デビュー曲「まっすぐに」について語った別のインタビューについてさらに掘り下げてみたいと思います。
 
次回に続きます。
今日はこんなところです。