20年前の、平成9(1997)年10月12日に開業した「京都市地下鉄東西線」に合わせ、並行していた路線が一部廃止になった「京阪京津線(けいしんせん)」の、その最後の日、10月11日の様子と思い出について、当時の写真を中心にお送りしています。
さて、沿線で去りゆく路面電車・京津線を目に焼き付けようとしていたわたしですが、最後に「お名残り乗車」することにしていました。
始発駅の「京津三条駅(京都市東山区)」へ戻ったのですが、構内は地元局「KBS京都」のテレビ中継が入ったりしているなど、大変な人の出でした。といいますか、改札も10数分待ってやっと入れるという状況だったことを覚えています。

ホームに上がりますと、ちょうど、この駅折り返しの普通列車が入線して来ました。行先板は「四宮 三条」となっていますが、「浜大津ゆき」です(到着した後、行先板は「浜大津 三条」へと裏返されたのでしょう)。
また、明日からあたらしく開業する「地下鉄東西線」と従来線との切り替え工事があるために、この列車が「京津三条駅を発車する最後の普通列車」だと案内がありました。満員の中、これに乗車しました。


隣の「東山三条駅」に到着。記念撮影する人々でいっぱいです。

沿線も、あちこちで無数のフラッシュが焚かれていました。
電車は、専用軌道に入り「御陵駅(みささぎえき、同山科区)」に到着。
ここでも、電車内から撮影する人と、駅で待ち構えている人とが交錯し、大変な状況でした。

そして、わたしは車庫のある「四宮駅(しのみやえき、同)」で下車しました。余談ですが、なにを隠そう、左端で記念撮影してもらっているのは、当時大学1回生だった若き日のわたしです(汗)
「せっかく乗車して来た80形なので、記念になにか写真を残せられたら…」ということで、ホームに居られた駅員さんにお願いして、撮って頂いたショットでした。ありがとうございました('ω')ノ

この駅でも、しばらくカメラを構えたり、やって来る電車を目に焼き付けようとしていたようです。
時刻は、午後10時を過ぎたところ。
「御陵~京阪山科駅間」での線路切り替え工事のために、終電が22時台に繰り上げられている(つまり、もうこの時間帯では「京阪山科駅」から先へは入れない)ので、そのひとつ手前で、車庫のあるここ「四宮駅」止まりの電車が増えて来ました。
「御陵~京阪山科駅間」での線路切り替え工事のために、終電が22時台に繰り上げられている(つまり、もうこの時間帯では「京阪山科駅」から先へは入れない)ので、そのひとつ手前で、車庫のあるここ「四宮駅」止まりの電車が増えて来ました。

続いてやって来たこちらも、浜大津発、四宮停まりの準急でした。
ところで、上下線の間をよくよく見ますと、白い布で覆われた板状のものが立っています。これは、明日から運行開始される、東西線へ乗り入れる京津線のあらたな専用車両・800系に合わせた「停車位置案内」です。
これまで、京津線を含む石山坂本線では「2扉車」のみの運行で、あらたに投入される800系は「3扉車」だったので、必然的にその位置も変わるため、という理由でした。
ところで、上下線の間をよくよく見ますと、白い布で覆われた板状のものが立っています。これは、明日から運行開始される、東西線へ乗り入れる京津線のあらたな専用車両・800系に合わせた「停車位置案内」です。
これまで、京津線を含む石山坂本線では「2扉車」のみの運行で、あらたに投入される800系は「3扉車」だったので、必然的にその位置も変わるため、という理由でした。

さて、この「京津線部分廃止」とともに、旧型車両のこの「260形・350形」、そして、ここまで乗車して来た普通列車用の「80形」車両も、この部分廃止に合わせて廃車されることになっていました(部分廃止と同時に「京津線・石山坂本線」の架線電圧を、直流600Vから1500Vへと昇圧するという関係もあった)。

そういったことで、廃車の対象となる車両の一部には、このような立派な「お別れメッセージ」が掲げられたものもありました。
こういったものを目にすると、ますます、というか、いよいよ、というような臨場感がこみあげて来るような気がしました。


また、この駅の北側には「四宮車庫」がありまして、そちらをちらと見てみますと、「明日からのあたらしい京津線の主役」となる、水色の塗装が印象的な800系が停車していました。
そしてその横には、すでに運用を終えて入庫している、今日で廃車になる260形や80形…「世代交代」を感じさせる光景が、そこにはありました。

気付けば、夜も9時をだいぶ回っていました。
「東西線と従来線との線路切り替え時刻」が、徐々に迫って来ます。
京津三条駅や、一方の始発駅である浜大津駅から、回送列車が次々とこの駅にやって来ます。

これは当時、駅で配布されていたリーフレットなのですが…
下り(京津三条方面)は、京阪山科駅を午後9時56分に、上り(浜大津方面)は、京津三条駅を午後10時14分に発車するものが最終だったようです。
というのも、この「終電車の繰り上げ」は単に「路線の切り替え」ということだけがあったためではなかったようで…

それについては、こちらも「回送列車」なのですが…
正面、左側の車掌台側のガラスに「K6」という掲示がなされているのがわかります。
実はこの後、この編成は、京津線をここから京都市内方面へと進んだ、専用軌道上にある九条山駅(同)付近に、他の廃車予定の車両とともに回送され、そこでいったん留置されたのち、現地で解体されることが決まっていました。
これは「その解体の順番を示す掲出(K6=九条山留置、6番目の解体)」だったようですが…
切り替え工事とともに、そういった段取りも順次行われていたという訳です。
しかし、留置のあとに現地解体…解体のためのスペース確保の関係で止むを得ないことだったのでしょうが、いまから思うと、なんとも寂しいものを感じます。

さて、隣のホームには「浜大津ゆき普通列車」がやって来ました。
東西線への切り替え工事がすでにはじまっており、なおかつ先ほど触れた「九条山駅周辺で留置される車両」をすべて現地まで回送し終えた後の列車なので、切り替え地点の大津側にあり、それとは直接関係がない「京阪山科駅(同)」始発の列車です。そういうことで、普段設定のない「浜大津 京阪山科」という特製の行先板を掲げていました。これの発車を見送ります。

そして、こちら側のホームにやって来た列車(600形だったかと思います)で一駅乗車、「京阪山科駅」に到着。先ほどのリーフレットにあったように、この時間帯には浜大津方面から、そして浜大津方面への列車はすべて「京阪山科駅発着」になっていました。
ここから京都市内へは、先ほど触れたように「線路の切り替え工事」がはじまっているので、このように系列の「京阪バス」での代替輸送が開始されています。
もう、時刻は午後11時をだいぶ過ぎていました。これに乗車して京津三条駅へと向かいました。

そして、ひっそりと静まり返った「京津三条駅」へと戻って来た時には、すでに日付が変わっていました。ですが、もう列車が来ない構内には、なぜか80形の普通列車が一編成、ポツンと留め置かれていました。

実は後日、この「京津三条駅構内」を利用して、路線の部分廃止や、架線電圧の昇圧にともなって廃車になった車両から出た、パーツ類の「部品バザール」なるイベントが行われました。
これはその際の「モニュメント」となったようです。


地下の京阪線「三条駅」を出ると、独特な警笛とともに、重々しいモーター音を響かせ、三条通りをたくさんの自動車とともに走っていた姿。
あの「信越本線・碓氷峠(うすいとうげ)」と同じ、「66.7パーミル(100m進むごとに66.7m登るという、日本一の急勾配)」を日々、越えていた姿(奇しくも、この「信越本線・碓氷峠」の区間が廃止になったのも、これと同じ平成9年秋でした)。

わたしにとっては、大阪から京阪特急で三条駅に降り立ち、ここで乗り換えて「びわ湖」へ行くのには必ずといっていいほど乗車していた、幼少のころからの、本当に思い出のある路線でした。
あれから20年…月日の経つのは本当に早いものだなというと、まさに月並みなのですが、まさにわたしにとってはそう感じます。
しかし、懐かしい思い出を振り返ることで、当時のことを甦らせることが出来て、実によかったなあ、と記事を上げていて感慨にふけった次第です。
8回にわたり、おつきあいくださりありがとうございました。
このシリーズはこんなところです。