部分廃止から20年「京阪電車京津線」路面電車時代の思い出を回顧する その3 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。

イメージ 1

いまから20年前の平成9(1997)年10月12日、「京都市地下鉄東西線」の開業にともない、それに並行する路線が一部廃止された、京都市内を路面電車で運行していた「京阪電車京津線(けいしんせん)」の往年の姿を、わたしが沿線を歩いて撮り歩いたお恥ずかしながらの写真をもとにしながら回顧するということをしています。

イメージ 2

京都側の始発駅、京阪線の「三条駅」に隣接していた「京津三条駅」を発車
した電車は、「三条通り(旧・国道1号)」沿いに、自動車などとともに走る「併用軌道」の区間に入りました。

イメージ 3

その「三条通り」と「東大路通り」が交差する「東山三条駅(京都市東山区)」を出た電車は、奥に見える急峻な東山へ向かい、徐々に勾配を登って行きます。
あえて電車に乗らず、沿線をてくてくと歩いての移動だったのですが、その山々へ向かっての勾配に臨もうと、独特な、重厚なモーター音を上げながら列車が頻繁にやって来るのでまったく飽きません。

イメージ 5

上り坂の勾配がひと段落したところにあったのが、やはり道路上にあった「蹴上駅(けあげえき、同)」でした。青々とした東山の山々が目前です。
現在は、同名で「地下鉄東西線」の駅が設けられています。

イメージ 4

いまも昔も、この駅前には「都ホテル(現在のウェスティン都ホテル京都)」があり、地上を走っていたこの頃では大変目立つものでした。

イメージ 6

イメージ 7

この「蹴上駅」を出発。ちょうど、準急が通過して行くところでした。
ここで京津三条駅からの併用軌道は終わり、三条通りの西側、専用軌道へと線路は移り、くねくねと東山の山越えへと入って行きました。

イメージ 8

蹴上駅から専用軌道に入り、しばらく走ったところにあったのがこの「九条山駅(くじょうやまえき、同山科区)」でした。
並行している三条通りのクルマの通りは、日中問わず激しいものだったのですが、周辺に民家は少なく、利用客もあまりなかったようです。

イメージ 9

ここでしばらく発着する電車を観察。京津三条ゆきが発車して行きました。

この駅の三条側には、画像にもあるように、片渡り式のポイント(分岐器)があったのですが、この駅で折り返す列車の設定はなく「非常用」だったとのこと。では、ひとつ先の「日ノ岡駅」へと進みます。

イメージ 10

イメージ 11

沿線の踏切から。上下線の電車が離合するところを捉えることが出来たのですが、かなりの急勾配、急カーブが連続していたことがわかります。

イメージ 12

東山の山越えを終えると、再び、電車は「併用軌道」へと戻ります。

イメージ 13

イメージ 14

そして、到着したのが「日ノ岡駅(ひのおかえき、同)」です。

こちらも、駅ホームは道路上に簡易に設けられたものだったのですが、他の同様の構造の駅とは異なり、道路脇に専用の待合所が設けられていたのがその特徴でした。

イメージ 15

このあたり、朝夕には特に三条通りの混雑は激しく、京阪の社員さんが出て、円滑な電車の運行のために、交通整理に当たっておられました。

イメージ 16

ちなみに、ここでも「地下鉄東西線」と並行はしていたものの、隣の「御陵駅」と駅間距離が短いという理由で、代替えの駅は設けられませんでした

イメージ 18

ところで、この駅に停車して扉を開放している、普通列車の80形の様子を見て見ますと…ホームが路面電車規格である低い構造がために、扉の下にはステップが降りているのがわかります。
これも、路面電車区間を走るこの形式ならではの装備でした。

同様の構造の「東山三条」「蹴上」「日ノ岡」の各駅では、このような対応がなされていました(路面電車区間以外の、ホーム高さが通常の駅の場合は、ステップを収納して客扱い対応していた)。この区間の「名物」でした。

イメージ 17

さらに、併用軌道を次の「御陵駅(みささぎえき、同)」へと進みます。

次回に続きます。
今日はこんなところです。