みなさんこんにちは。前回からの続きです。
わたしが長年、心の支えにしているシンガーソングライター・松阪晶子(まつざか・しょうこ)さんの代表曲、5thシングルの「燃える瞳を持ち続けて」と、それが収録されている、ファーストアルバム「夢を眠らせない」について、わたしが感じるその魅力について語るということをしています。
前回の記事はこちらをどうぞ↓
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松阪晶子さんの神髄!5th.SINGLE「燃える瞳を持ち続けて」と1st.ALBUM「夢を眠らせない」の魅力について語る 前編(2017年10月5日アップ)

前回でも少し触れたのですが、このエネルギーあふれる楽曲「燃える瞳を持ち続けて」を含む、全11曲という陣容で、平成6(1994)年6月17日にリリースされたファーストアルバム「夢を眠らせない」には、実は「秘められたテーマ」がそのすべての楽曲の根底にあるように感じます。それは、アルバムタイトルにある「夢」です。
それぞれの楽曲では「いつかは叶えたいと思っている夢」や「漠然と願っている夢」、「かつて抱いていた夢への憧憬」、「夢に破れてもなお、次の夢の実現のために向かって走る姿」であったり、そして「〝自分で伝説をつくり出す〟という、実際は遠い世界であるけれども〝こうありたい!〟と願う、実に壮大な夢」(これが「燃える瞳を持ち続けて」の世界ですが)が語られていることが、その「秘められたテーマ」だとわたしは思っています。

では、このファーストアルバム「夢を眠らせない」のリリースの時期に発売された、とある音楽雑誌からのインタビュー記事を拾ってみたいと思います。
その中でも、晶子さんの捉える「夢」についても語られているのですが、それ以外にも、このファーストアルバムに至るまでの、幼少からの「アマチュア時代に培われたプロ根性」というものが、エネルギー溢れるこのアルバムの楽曲の基礎に、そして「シンガーソングライター・松阪晶子さんそのものになっている」ということがよくわかり、大変興味深いものです。

(1994年)5月11日リリースのニューシングル「燃える瞳を持ち続けて」(もう、CFでもすっかりお馴染みのあの曲です。)に続き、6月17日に待望の1stアルバム「夢を眠らせない」を届けてくれる松阪晶子。初めてのアルバムを発表する場合、大抵、何かを成し遂げた時の充実感と安堵感、それに次への期待と不安が加わった微妙な表現が現われるものである。
実際、僕はこれまで数多くのインタビューの中でその独特なニュアンスを目にしてきた。だが、彼女は明らかに違っていた。あえて、言うなら何か遠くを見ているような気がするのである。アルバムは、ひとつの通過点という気持ちの他に、唄うこと自体彼女にとって特別な意味があるようだ。

―タイトルもそうですが、”夢”、”自分”という言葉がアルバムの中に凄く存在していると思うのですが。
「夢ということに対しても、そうなんですが、弱気になるのが凄く嫌なんですよ。逆に、皆にもなって欲しくないっていうか。自分の努力次第で(いろんな事は)やり遂げられるという部分は、生きていく上で絶対にあると思うんですよね。
それをしないで、あの時こうすれば良かったなあって過ごすのって嫌だし、何もしないで後悔するより、失敗を恐れないで何でもやった方がいいという気持ちが自分の中にあるんです。だから歌詞もいろんな事をちゃんと飲み込みながら、前に向かって歩いて行くという所が出てしまうんじゃないかと思います」
―自分に言い聞かせてるところもありますよね。
「もちろん、それもあります。自分で確認しながら生きていかなければ、駄目な人間なので、私の場合。確かめつつ行かないと不安になる時があるんですよ。ちゃんと一歩ずつ確信しながら前へ進むというか、そうしないと砂場に足跡を残したようにスッと消えてしまいそうで。
だから、濡れた砂場だとグッと踏み込めば、跡が残りますよね。
自分が意見を持って踏み込んだ所は消したくないという」
―やはり、描かれてる世界は自分自身がそのまま具現化されていると。
「そうですね。っていうか、当然、自分に起こったことだけでは限られてますから。人と出会って話したこととかも自分なりに模写したりもしてます。

あの、『都会の中で』(1993年11月10日リリース、3rd.SINGLE「DAKE-DO」のカップリング曲)とかは、私そのままですね。
”電車に乗りたくない”とか(笑)
(注釈:「人の匂いに敏感になり/電車に乗りたくないわがままも/出かけて口唇が乾いて/リップを買いこれで10本目」という一節がある)、上京して来て故郷(の盛岡)に帰りたいと思うこともありますし(注釈同:「逢いたくて切ない夜を/越えて心はあなたのもとへ/帰りたい今すぐ/駆け出して行きたいよ」…)。
それは、都会の中でという大きなタイトルがあって、どういう風に私が過ごしたかが単純に形になっていますね。それから(ファーストアルバムの最初の楽曲である)「夢を眠らせない」なんかは、辛いことがあっても夢を眠らせたくないとか。(気持ちを)抑えている曲もあるし、走って行く曲もあったり、いろいろ交差していると思いますね」
―あの、松阪さんの唄い方って、いい意味で悲壮感の一歩手前ですよね?
「よく言われるんですよ(笑)」
―それは、曲にハマり込んじゃうみたいな?
「ライヴだとまた、変わって来ると思うんですけどね。レコーディングの時は、例えば、リズム撮りが終わってヴォーカルダビングの日が決まると、オケと詞とメロディに凄い集中してしまうんです。その日に2曲録音するとかなると、2曲を一生懸命繰り返して、精神統一を本番前までずっとしながら、直前で一息入れて歌入れするみたいな」
―そうした集中力は、民謡をやっていて培われた部分もあるわけですか?
「ありますね。父が歌で、母が踊りの先生でしたから、私は、一人っ子で3歳の時から集中攻撃で英才教育という環境で、舞台に立つという意識を凄く持たされて育ったんですよ。毎日毎日、歌と踊りの稽古で。でも、ロックとは発声が違うんですよ。それは、2年くらいヴォーカルレッスンに通って変えましたけど。あの、肺活量とか凄くて、声が出過ぎちゃってマイクで拾えないんですよ。

だから『満月』(4th.SINGLE 1994年3月9日リリース)とか聴いてもらえばよくわかるんですが、晶子節というか、民謡と普通のロックを唄っている人の中間って感じで。私としてはその部分をもっと広げていきたいんですけどね。
で、ステージに対する集中力というか、プロ根性みたいなものはそこで培われた。どんなに風邪をひいていようが、熱があったり、だるくても、どんなに悲しいことがあろうが、唄う日が決まっていれば、泣かずに唄いなさいという親でしたから」
―生半可じゃないですね。
「ええ、だからロックというジャンルで、今度はプロになって、さてレコーディングだ、声が出ませんじゃ話にならないということなんです。
体調とか精神とか全部含めてコントロールしなくては勤まらない、やり遂げるって部分ですよね。あと、歌唱力っていうのも気づいたらもう唄えてたんですよ。声は出る出る、音域も高い高い、それは、親には感謝してます」
―でも、お父さんからすれば、ロックって邪道じゃないんですか?
「まあ、多分そうでしょうね。でも、一生懸命でハートのある人は好きなんですよ。ウチの父なんか、歌番組とか紅白しか見ないけど、中野サンプラザさん?あっ、それは違う、サンプラザ中野さんとか(笑)
で、父はスキンヘッズなんですね。それで、”お、若者がスキンヘッズだ”って注目して、そうしたら中野さんって一生懸命汗を流して血管浮かしながら唄ってるじゃないですか。父からすれば、ウマいヘタじゃないんです。爆風スランプはいいってロックバンドの中で唯一名前を覚えてますから」
―どんなジャンルでもハートのない奴は駄目だと。
「そうですね。父は、私のライヴは必ず来るんですね。で、ちょっとでも気を抜いていい加減に唄うと凄く言われます。曲調が分からなくても(気持ちが入っているか)分かるんですよ。
”お前、あのスローの曲のここら辺で気を抜いただろう”とか。
だから、歌心っていうか、もっともっとちゃんとしろって言われるし、自分でも意識しますね」

―しかし、そうした気持ちの現われのひとつかもしれませんが、「燃える瞳を持ち続けて」以外は、ほとんどコーラスが入ってませんね。
「そう、そうなんですよ。あえてそうしたかったんです。(コーラスを)つけたくないというか、自分の一本の声でどこまで表現できるかというのがあって。それを続けていると今度は、やっぱりコーラス入れてみたらってことになってきたわけですよ。別に、折れてきたんじゃなんですけどやってみると”ああ、いいなあ”ってコーラスの良さが分かって来て(歌を)持ち上げてくれるし、サポートになるし。
最初の頃は、何が何でも、絶対、自分ひとりの声で唄ってやるっていうのがありました。曲によりけりだな、コーラスがあって引き立つ、入れない方がいいということが分かって勉強になりました」

―そういうマインド的なものも含めて、このアルバムを客観的にどう捉えています?
「例えば、アマチュアの時にバンドやってていろんな人のコピーとかするじゃないですか。で、アルバムを聴いて(善し悪しを)判断するわけですよ、一般の人は。だから、自分の気持ちの中というか、気持ちに対する自信はあるんです。反面、この気持ちがどう伝わるか見てみたいなという所もあります(笑)でも、自分自身は、もうこれ以上できないという状態までキッチリ時間をかけてやったので、あとは、どれくらいの人に聴いてもらえるか凄く楽しみです。
もちろん、さっき言ったように自信のないものは出したくないし。松阪晶子のデビューアルバムということでは、形はしっかり出来ていると思うので」
―でも、どういう反応があっても、基本は全然変わらないでしょ?
「変わらないです(笑)。何を言われてもゴックンと飲み込んで、また前を向いて歩いていっちゃいますね(笑)うん、がんばってやる~みたいな」
―極端な話、CDにならなくても、どこで何をしていても唄うのはやめないみたいな。
「ああっ、それはありますね…思いますね(しみじみ)」
―こうしてインタビューしていて、松阪さんにとって、唄うこと=生きる意義みたいなものを強く感じるんですけど…
「う~ん、何か…家族がいつもくっついてくるんですよ、私の場合、唄う時は必ず。どうしてもチラチラってくるんですね。どういうわけか(笑)。
かと言って今までの話を聞いても凄く厳しい親みたいに聞こえてくるかもしれませんけど、それはあくまで師匠と弟子の時だけですから。
家族の時はホゲ~っとして凄く暖かい関係なので」
―絆の深さみたいなものは感じますよ。
「…(頷く)で、私は、父が年齢がいってからの子供なので、父は今74歳なんですよ。でも、引退した現在も唄ってますから。
だから、父のように在りたいと思うんですよ。
”自分自身の喜びで唄ってる”…という父を見てるんで、年を取っても、歌手じゃなくなったとしても、唄い続けていきたいと思いますね」
軽快なポップチューンから、疾走感のあるナンバー、バラード、シャッフルまで1stアルバムは、バラエティに富んでいると形容すればいいのだろう。
しかし、新人らしからぬクオリティの高さはもちろん、彼女の表現していることはいい意味で全て同じだ。それは押しつけではなく、自分の事なのだ。
それだけだなあ、ほんと。
たぶん、彼女の歌に引き込まれる人はそこだと思う。あ、誤解のないよう松阪晶子は、やたら明るくてマシンガンのように早口で喋る、曲を作ったり唄うこと以外は、ごくごく、普通の女の子である。
(インタビュー・文/磯崎 雅彦)
「ロックンロールニュースメーカー 別冊 QUEEN'S PAL Vol.6」
講談社刊 1994年6月発行 P43-44より)

ファーストアルバム「夢を眠らせない」は、文中にもあったように、晶子さん自身の極限まで、これほどまでにというまでの、ここまでの人生の過程を経た集大成として上梓されたものだった、ということがわかります。
そして、これらに至るまでの過程は「シンガーソングライターになる」という「晶子さん自身の夢」を果たしたその経過のようにも、そしてなにより「唄う」ということが、「松阪晶子というひとりの人間の生きる糧になっている」、もっと言えば「それが松阪晶子そのものだと言える」という感さえ受けます。
インタビューの内容を鑑みますと、「晶子さんのそのもの」とも言えるこの「燃える瞳を持ち続けて」やファーストアルバムに収録されている楽曲たちは「『ロックの世界でシンガーソングライターになる』という夢を叶えるための、幼少期の、民謡時代からの下積み」からはじまり、そしてそれは「”夢を叶える”という強い自己の意思表示になっているのかな」ということ、そこに堂々と存在する「骨太さ、力強さ、心強さ」、そしてなにより、一切手を抜いていない「一生懸命さ」、また、「唄う」ということに悦びを感じるという視点であることに、一ファンのわたしとしては、リリースから四半世紀近く経ったいまなお、それらへの絶大な「信頼感」を強く感じます。
わたしはこれからも「その精神」について行こう、心の支えにして行こうと記事を上げつつ、あらためて強く思った次第です。
二回にわたり、おつきあいくださりありがとうございました。
今日はこんなところです。