初夏の東北をひとり旅、宮城・岩手両県のJR線未乗線区を乗り鉄した際の様子をお送りしています。

ここはあの漫画家、石ノ森正太郎氏ゆかりの石巻(いしのまき、宮城県石巻市)です。待ち時間が1時間ほどだったのですが、さまざまな石ノ森作品のオブジェなどに出逢った駅前の散策で、短く感じるほどでした。
そんな中、石巻線で小牛田(こごた、同県遠田郡美里町)ゆきが入って来たというところです。雨はだいぶ止んで来ているようですが…

これに乗り込みます。2両編成の車内はこのような感じ。
地元の所用客と思しき感じの乗客がほとんどでした。いい雰囲気です。

ここから向かうのは、石巻線の「前谷地駅(まえやちえき、同)」です。
乗り込むとほどなく列車は動き出しました。

仙石線の「ハイブリット列車」が停車していました。
「仙石東北ライン」で仙台駅へ折り返す便ですね。

もう少し時間があれば、人気の観光スポット「石ノ森萬画館」へも行けたのですが。またぜひ再訪してみたい「石巻」でした。



左側に並走していた、仙石線が徐々に離れて行きました。

石巻から仙台へは、先ほど触れた直通列車のある「仙石線」が主なルートなのですが、実はこの「石巻線」でも、終点の小牛田で東北本線に乗り換えれば向かうことが出来ます。ルートを考えるのも旅の楽しみです。

雨は止んでくれたようで、晴れ間すらも少し見えて来ました。
鹿又(かのまた、同)にて。

鹿又を出ると、列車は広大な田園の中をひた走ります。


7月に入っているので、田植えの終わっている、青々とした車窓が続きます。
この時期ならではの光景、秋の実りの時期の車窓も味がありますが、この目に彩やかなものもほっとさせられます。

しばらくしますと、このあと乗り換える「気仙沼線」の線路が右隣に並走して来ます。こちらも単線です。

降り支度をしようと、2両編成の車両の後部を見ますと…誰も居ないですね。
ローカル線ならではの、のんびりとしたいい雰囲気を醸し出しています。

ところで、ここまで乗車して来た列車内には「津波警報が発表された場合」という、この告知がありました。震災で大きな被害を受けたまさにその場所ということもあるので、このような告知は列車内といわず、駅などあちこちで目にするものでした。落ち着いて、助け合って…大切なことです。

石巻から15分ほど、小牛田ゆきをここ「前谷地駅」で降りました。

この前谷地駅、まだ石巻市内なのですが、郊外のここは「石巻線」と「気仙沼線」との分岐駅となっています。
石巻線はこの先、大崎平野の東側に当たる小牛田(地図左側)へ、そして気仙沼線(けせんぬません)は旧北上川に沿ってしばらく山裾を北(地図上方向)へと延び、太平洋岸に沿って気仙沼(同県気仙沼市)と向かっています。

では、この「前谷地駅」については…
当ブログでも幾度か取り上げておりますが、わたしの旅する時のおとも、
「各駅停車全国歴史散歩5 宮城県」
(河北新報社編 河出書房新社刊 昭和59年4月初版 絶版)
から取り上げてみたいと思います。

湿地を美田に変えた町 前谷地
三陸縦貫鉄道の起点駅
河南町(かなんちょう、平成17年に石巻市と合併し消滅)は宮城県の北東部に位置し、旧北上川下流に広がる沖積平野は県内でも有数の美田地帯だ。
昭和三○年、前谷地、広渕、須江、北村、鹿又の五つの村が合併して発足した。交通の便に恵まれ、国鉄石巻、気仙沼線のほか国道45号、108号などが走っている。人口一万八○○○人。産業は農業が主体だが、電子部品工場も進出している。
小牛田―石巻間に鉄道が敷設されたのは大正元年一〇月のこと。仙北鉄道(せんぼくてつどう)という私鉄が前身で、前谷地駅もこの時に開設され、同八年に国鉄に移管された。前谷地駅は、沿線住民にとって八○年来の悲願といわれる三陸縦貫鉄道構想の南の始発駅でもある。ここで石巻線と分かれると、気仙沼線として一路北へ向かう。(後略、P166)

低湿地から美田へ
前谷地は太古の昔は入り江だったところで、後に湖沼が点在する一大低湿地帯だったとなった。言い伝えによると、「前に広がる谷地(低湿地)」という意味から、やがて前谷地の名がついたという。(中略)「その昔、鹿島の神々が常陸の国から船出して石巻に至り、さらに北上して船島(前谷地)に着いた」ともあり、昔は一帯が海だったと推定できる。
前谷地の開墾は、東西を流れる北上川(きたかみがわ)、江合川(えあいがわ)が少しの雨でも氾濫したため難航を極めた。藩政時代、伊達政宗(だて・まさむね、1567-1636。戦国・江戸時代の大名。初代仙台藩藩主。「独眼竜政宗」としても知られる)は家臣の川村孫兵衛重吉(かわむら・まごべえしげよし、1575-1648。戦国・江戸時代の武将。伊達家に仕え、現代の港町・石巻の基礎をつくったとされる人物)に命じ、元和九年(一六二三)から寛永四年(一六二七)にかけて北上川の大改修工事を推進させた。
その結果、江合川は北上川と合流し、不毛の低湿地だった前谷地とその南側に位置する広渕は、立派な水田地帯に変貌した。
その後も開田は進み、第二次世界大戦後の農業水利事業が国営で完成したことにより、稲作は一層安定し、現在では町の経済を支える大黒柱となった。
(後略、P166-167)
広大で、豊饒なこの田園地帯の成り立ちには、大きないきさつがあったのですね。このあたりでは、北上川・江合川という二つの大きな河川の治水がなされるとともに、周辺地域も次第に整備されて行ったことがわかりました。

さて、先ほどから述べておりますように、この前谷地駅で気仙沼線に乗り換えます。接続する「柳津ゆき」がすでに、軽いアイドリング音を立てて発車を待っていました。
ここから先、気仙沼線ははじめて乗車する区間です。
ここから先、気仙沼線ははじめて乗車する区間です。

1両編成だったのですが、車内はご覧のような感じ。
こちらも乗客はめいめいのんびりとしていますね。

そういうことで、余裕で座れる状況でしたので、後方の乗務員スペースから
前谷地駅からの発車の様子を眺めてみることにしました。これもローカル線を走る、ワンマン列車での「特権」のようなものですね。

では、その様子をギャラリー風にどうぞ。



構内を抜けたところで、石巻線とのダブルシーサスポイントを渡ります。

左側は、先ほどまで乗車して来た石巻線です。


石巻線が離れたところで、前谷地からスタートしたこの「気仙沼線」についても先の「各駅停車全国歴史散歩」から拾ってみます。
…気仙沼線は前谷地と気仙沼を結ぶ全長七二・八キロで、大正一一年公布の新鉄道敷設法で予定線に組み込まれた。しかし、ルート決定に関する争いなどで工事は大幅に遅れ、前谷地―柳津間一七・八キロが開通したのは、計画策定から四六年後の昭和四三年一〇月のことだった。その後もしばらくは”盲腸線”の状態が続き、同五二年一二月になってやっと全区間が開通した。
三陸縦貫鉄道の壮大な構想も、大赤字に悩む国鉄の再建のあおりで計画変更を余儀なくされ、岩手県内では一部路線の第三セクターによる運営が決定されている(注釈:三陸鉄道北リアス線・南リアス線を指す)。
前谷地駅を発着する気仙沼線の列車は一日五―六本と少ないが、石巻―小牛田間では唯一の有人駅である。(後略、P166)

あの複雑な、風光明媚なリアス式海岸で有名な「三陸」へ鉄道を敷設する、という計画は古くからあったのですね。しかし、全線の開業はごく最近(と言っても昭和50年代)のことだったことに少し驚きます。

ところで、車窓を眺めていますと山の低いところまで雲がかかっています。
そういえば、車内の冷房も相まって少しひんやりするような感じもします。

前谷地から20分ほど、柳津駅(やないづえき、同県登米市津山町)に到着。

乗車して来た列車はこの駅止まりということで、下車した乗客が駅舎へ向かうと一気にホームは閑散としてしまいました。
その代わりに、待っていた乗客がぱらぱらと乗り込んで行きます。


行き違いが出来る構造の駅です。すっかり、雨は止んでいるようでした。

駅舎への跨線橋から、先ほどやって来た前谷地方面を望む。
北上川を渡る長大な鉄橋から、カーブを左へと大きく下ったところに、この柳津駅があることが伺えます。


ところが、跨線橋から反対の東の方向を見ますと、線路はまだこの先続いているように見えます。線路が集約される構内の端は草生していて、なおかつ出発信号機も「赤」を灯したままです。

地図を見てみますと…先ほどの絵の通り、柳津駅の先へも線路は延びているのですが、運転中止を示す×印が付けられていることがわかります。
ここまで乗車して来たのは「気仙沼線(けせんぬません)」。
その名の通り、この先、気仙沼(同県気仙沼市)までを結んでいる路線なのですが、6年前の東日本大震災で被災し、この駅から先の区間、気仙沼までは運転が出来なくなってしまったため、現在では「BRT(Bus Rail Transit、バス高速輸送システム)」という形態で路線の復旧がなされています(「鉄道代行バス」という定義ではないとのこと)。

それでは、さっそく改札を出ます。くだんの「BRT」は駅前から発着しているとのこと、列車は前谷地へと折り返して行こうとしていました。
次回に続きます。
今日はこんなところです。