先日の休みを利用し、府南部の貝塚(かいづか)をあちこちと巡って来た、小旅行の様子をお送りしています。
2両編成の車内の様子。どことなく、のんびりとしています。

貝塚駅から乗り込んだのは水間鉄道(みずまてつどう)。
ステンレス車体に、紫と白の帯を巻いた2両編成の「水間観音ゆき」です。

大阪と和歌山とを結ぶ、南海本線から大きく分岐して行くさまが地図からわかります。さて、どんな旅になるのでしょうか。

制服姿の高校生もちょこちょこ見かけたのですが、そういえば、訪問したこの日は連休の合間の平日でした。

こまめに設けられた駅へ、丁寧に停車する度に車内は空いて行きました。

貝塚駅を出て10分も経たないところだったでしょうか、おもむろに頭上を別の線路がまたいで行きました。しかし、停車するでもなく…

この頭上の路線は、貝塚まで乗車して来た南海電車と競合している「JR阪和線(はんわせん)」でした。ここでも地図を参考にするのですが、やはり接続している駅がまったくありません。
これは気になりますが、水間鉄道の開業(大正14年)においては、南海電鉄が大きく関与していたことから、くだんのJR阪和線の前身で、南海の競合相手だった阪和電気鉄道との接続を考慮しなかったことや、阪和の和歌山までの開業時期(この区間の開業は昭和6年)の差、などが要因だったようです(当時、多くの需要が見込まれた水間観音への参拝客を、貝塚で接続する南海が独占したかったためか?とも読み取れます)。
「南海と阪和との激しい競合関係」についてはこちらもどうぞ↓
当ブログ
「チン電の旅 その7 完結編」(2010年6月15日アップ)
「仁義なき戦い」~昭和初期のとある抗争より(2014年5月15日アップ)

さて、途中の名越駅(なこしえき)で、反対の貝塚ゆきと行き違います。
水間鉄道は全線単線で、この駅で列車の交換が行われているとのこと。

しかし、この2両編成のワンマン列車、内装がとても昭和を感じさせられるものです。その雰囲気が、車内外のあちらこちらに見て取れました。

この日は、朝から暑いくらいの陽射しでしたので、早くも扇風機が活躍していました。もちろん冷房車両なのですが、まだそれには早いですもんね。
実に緩く回る扇風機の涼風がちょうどいい感じ、といったところでしょうか。
実はこの車両、東京急行(東急)のおさがりなのですが、それについては帰路に詳しく取り上げたいと思います。しばらくお待ちください('ω')ノ

電車はさらに南へ進んで行きます。
沿線にため池が多いのは、泉州地方の大きな特徴です。
もっというと、あの高僧・行基(ぎょうき、668-749)にまつわる伝説が、これら多数のため池には多く残されているところでもあります。

15分ほどで、終着駅の「水間観音駅」に到着しました。
車内をあれこれと観察しているうちの、あっという間でした(*^^)v


この駅の貝塚方には車庫が設けられています。数編成が留め置かれているのが見えますが、こちらもやはり、先ほど触れたように「元・東急車」です。

いい絵です。そういえば、ここまで乗車して来た編成とは正面顔が異なります。ここから見える2編成は、もともと中間車両だったものに、あらたに運転台を取り付けた車両なのだとのこと。譲渡先で短編成を組むのに、運転台つき車両が足りないがため、という事情があったようです。

ということで、乗車して来たのは「原型」の元・東急車両だったという訳でした。東急では「7000系」という形式だったそうです。

ところでホームの向こうには、古びた塗装の電車が置かれていました。
現在の元・東急車が導入される前に使用されていた元・南海車だとのこと。
扉にはしごがかけられているので、車内を見学出来たりするのでしょうか。

さて、この水間観音駅…ホームに降り立ったその瞬間から、いまや懐かしいものがたくさんありました。

木製のベンチ。わたしが小さい頃には割と見かけたように記憶しているのですが、少なくともいまでは見ることはなくなってしまった気がします。懐かしいですね。


そして、この「くず入」!
そう、このようなごみ箱、昔は確かに駅にありました。
「駅を美しくいたしましょう」…標語というか、その文句が泣かせます(笑)


おおげさかも知れないですが、わたしなどにとっては、小さい頃、確かに見聞したことのあるものだと、記憶が甦って来るようです。
いや、しかし懐かしい気分になりました。

湧き上がるような回想にいちいち感動?しつつ、改札をあとにします。
ただ、そのようにレトロだ、昭和だ、懐かしいなどと言いつつも、自宅からここまではすべてICカードの「ICOCA」だけで来れました。これはなんというのか、意外でした。
次回に続きます。
今日はこんなところです。