みなさんこんにちは。今日の話題です。
先日より鉄道模型メーカーのトミーテックから発売された「鉄道コレクション」シリーズについて取り上げているのですが、引き続いて勝手な視点であれこれと細見するということをして参りたいと思います。
今日もよろしければどうぞおつきあいください。

本日、取り上げるのはこの「京阪電車大津線80型 連結車非冷房」2両セットです。
どことなくこじんまりとした印象を受けるのですが、早速見て参りたいと思います。

セットの2両はこれでした。80型、車番は83号車と84号車です。
間違いなく京阪電車ではあるのですが、長年、通勤型車両で見慣れた緑の濃淡の塗装とはちょっと異なる感を受けます。
(84号車の正面ガラスがゆがんでいますが…)

商品名にある大津線とは、京阪電車の路線網での分類のひとつで、京都と浜大津とを結ぶ京津線(けいしんせん)、そして、浜大津で京津線に接続、びわ湖湖岸を走り、大津の市内電車として親しまれている石山坂本線(いしやまさかもとせん)という2つの路線を総称したものです。
そして、この80型という電車は京津線普通列車の専用車両として、昭和36(1961)年の製造開始以来、平成9(1997)年10月までの長きにわたり運用されて来ました。

現役当時の写真をいくつか探してみました。
撮影年月日から推測すると、わたしが中学生の頃だったかと思うのですが、以降お見苦しい写真で申し訳ですm(__)m
京津三条駅(けいしんさんじょうえき、京都市東山区)を出発、四宮駅(しのみやえき、京都市山科区)へと向かう80型普通列車。
平成3年1月撮影。
2両編成の列車が進む先にご注目頂きたいのですが、その先は道路になっていることがわかります。
この駅から東へ、御陵駅(みささぎえき、京都市山科区)までの間の多くは、三条通(旧・国道1号)を車とともに走る路面電車(併用軌道)区間で、さらにその先では、かつての信越本線・横川~軽井沢間の碓氷峠(うすいとうげ)と同じ66.7‰(100m進むごとに66.7m登る勾配)という、日本最大級の急勾配区間をこの車両は日常的に行き来していました。

四宮駅で京津三条駅へと折り返す80型。この頃はすでに冷房化され、正面車番の位置が左上へと変わっていたり、コーポレートマークがあらたに設けられていた。平成2年11月撮影。
この京津線ですが、並行して京都市地下鉄東西線が敷設されることになり、平成9(1997)年10月、併用軌道が主たる区間を占め、難関の山越え区間を含む、京津三条~御陵間が廃止され、京津線の京都側の起点は御陵駅まで後退、廃止区間の代替路線として設けられた地下鉄東西線に京津線は乗り入れることになり、現在に至っています。

こんな写真も出て来ました。京津三条駅を出発する準急浜大津ゆき。平成2年11月撮影。
終点・浜大津駅に近い大津港で接続する、観光船「ミシガン」のヘッドマークを掲出している。600形の2両編成。
京津三条を発着する京津線の普通列車には80型が専用で使用されていたのですが、それに対して準急列車はこの当時、600形という車両が主力でした。
こちらの車両は、京阪の通勤型車両で見慣れた緑の濃紺塗装で、現在でも大津市内を走る石山坂本線で活躍しています。

前置きが長くなりましたが、肝心のモデルを見て参りたいと思います。
全体的に丸みを帯びた車体で、客用扉は3枚。乗務員扉は設けられておらず、乗務員は車内から運転席後方のパイプ仕切りを外し、乗務員室へと出入りしていました。そういった開放的な構造ということもあってか、この車両はまさに路面電車仕様でした。

正面から。窓は大きく取られており、昭和30年代半ばという時代背景としては斬新なデザインと評されたようで、さらに京阪では珍しく、近鉄傘下の近畿車輛で車両のデザイン設計と製造がなされたことも特徴です。
また、路面区間を走行するということで、路上の障害物を想定し、こちらも路面電車然とした排障器(スカート)が設けられていました。

続いて屋根周りです。非冷房時代をモデルにしているということで、ベンチレータがずらっと並んでいます。余談ですが、この80型の冷房化は平成元(1989)年からだったのですが、細身の車体構造がゆえに屋根上へ大きな冷房装置を搭載したことで車両の様相が大きく変わった、とも評されたとのこと。

そういった小柄な車両ということで、この80型を、先日取り上げた1900系特急電車と比べてみますと…

車体の寸法がひとまわり程違うことがわかります。京阪線と大津線の線路幅は同じ標準軌(1,435mm)なのですが、路線としては現在もまったく別規格です。

もう少し屋根周りを見て行くのですが、パンタグラフの大きさに目が行きます。

車体高さが押さえられていることもあってか、架線まで結構な高さがあり、パンタグラフが台でかさ上げされています。
主に、路面電車で多く見られるというものです。
また、客用扉の下部にはさらに段が設けられていることがわかります(下の赤枠部分)。先ほども触れたのですが、併用軌道(路面電車)区間では停留所が道路上の低い位置に設けられていて、そこでの乗降のためにさらに一段、ステップが降りる仕組みになっていました(通常のホームを使用する駅では、このステップを出さず乗降扱いが出来た)。80型の特筆される点です。

車両反対側を見てみます。こちらは運転台の設けられていない連結面に当たるのですが、運転台側と同様に丸みを帯びています。

これを正面から見たところ。車体断面の下半分が裾絞りされている様子もわかるのですが、中央の貫通扉(隣の車両へ移るための扉)左右の窓の上部に、丸い突起様のものが確認出来ます。フタがされているので実使用されていた様子がないのですが…

ということで、それをひもとくためにこちら、
「細密イラストで見る 京阪電車車両の100年」(イラスト 片野正巳、京阪電気鉄道株式会社発行、ネコパブリッシング刊 2010年 P48)を見て参りたいと思います。

こちらは80型の紹介ページなのですが、この二つのイラストは1両編成で運用されていた単車時代のものです。
そういうことで、昭和36(1961)年の登場から10年ほどの間は、この80型は1両編成で運行されていました。
また、画像上のものについては、集電装置(架線から電気を採る装置)が菱形のパンタグラフではなく、棒状が特徴のトロリーポールという方式になっています。トロリーポールからパンタグラフへと集電方式を変更するのと同時期、この80型も2両固定編成に改められたという経緯がありました。

その際、片方の運転台が撤去されたのち、かつて運転台があった側もヘッドライトの痕跡がそのまま残された、という訳でした(その他にも、2両固定編成へ組み直しされる際に、車両数を合わせるために片方のみに運転台が設けられた車両も新たに製造された)。
その後も冷房改造などを経て、平成9(1997)年10月の全車廃車後、大津線の工場がある錦織車庫(にしごおりしゃこ、滋賀県大津市)で、運転台のみカットされたものを含め、2両が現在でも保存されています。

最後に、付属のステッカーはこのようなものでした。
当時、使用されていた行先標識板が模されています。
普段は、左側の「四宮 三条」や、早朝・深夜帯にはその裏面だった「浜大津 三条」という四角い、白い板が使用されていたのですが(日中・朝夕ラッシュ時、80型の普通列車は京津三条~四宮間のみ運転で、京津三条~浜大津間の設定は早朝・深夜帯の数本のみだった)、車両運用の都合上、準急列車にも充当されることがあったそうで、その際には右側2つの「準急 三条」や、その裏面の「準急 浜大津」という標識が使用されていました。残念ながら、いずれもわたしは見る機会がありませんでした。

京津線路面区間の廃止とともに運命をともにしたこの80型、姿を消して今秋で早くも20年になろうとしています。
余談ですが、その京津線の部分廃止の当時、京都市内の大学へ通っていたわたしは、山科に下宿していた友人宅を訪れる際、京津三条駅からこの80型によく乗車しました。急勾配の区間を、モーター音を上げながら走っていた姿をよく覚えています。まだ10代そこそこの、世間もまま知らぬ学生時代の思い出の一端にあった車両でした。
あれからもう20年…などと思うのですが、それはそれでまた別の話ですね(笑)

ところで、この80型車両の他に、先月末には「鉄道コレクション」で他にも京阪の車両が発売されました。それが画像左側の車両なのですが、今回取り上げた80型と同じ塗装をまとっています。次回は、こちらの車両について取り上げたいと思います。
おつきあいくださりありがとうございました。
今日はこんなところです。