岐阜を代表する観光名所、「金華山(きんかざん)」を訪問しています。
今夏、公開された映画「ルドルフとイッパイアッテナ」という作品の中で、ひょんなことから東京へやって来た主人公の黒ねこ「ルドルフ」が度々、「故郷の思い出」として語る場所でもありまして、今回の訪問はその「聖地巡り」という目的が主なものです。

さて、「金華山」のふもとに位置する「岐阜公園」から、作中にも重要な場面で登場する「金華山ロープウェー」で「山頂駅」へやって来ました。
この先には「岐阜城(稲葉山城)」があります。

ただ、ロープウェーが「山頂駅」という名前なのにも関わらず(?)山頂に建っている「岐阜城」までは、少し山道を歩くようになっていました。ですが、緑に囲まれたこの登山道なので、いい運動になるかなと考えてみます(笑)

ところで、ここ「岐阜」の礎をつくったのはあの「織田信長(おだ・のぶなが、1534?-1582。安土桃山・戦国時代の武将、戦国大名)」です。
詳しく説明するまでもないと思われるのですが、ここ「岐阜城」を拠点に、城下で「楽市・楽座(らくいち・らくざ)」と呼ばれる、従来の概念にとらわれない「自由な市場経済システム」を取り入れたことなどに代表される、さまざまなアイデアで「天下人」の地位にのし上がった人物として知られています。

「岐阜城の歴代城主」という案内板がありました。
実は、その信長公が岐阜に入る前からもここには城があったそうで、最初は「二階堂行政(にかいどう・ゆきまさ、生没年不詳。鎌倉幕府に仕えた官僚)」という人物が、ここに砦を築いたことが嚆矢なのだそうです。

その後は「斎藤道三(さいとう・どうざん、1494?-1556。美濃国=現在の岐阜県=の戦国大名、娘の濃姫の夫は織田信長)」がここに「稲葉山城(いなばやまじょう)」を築いたのち、先ほど触れたように、信長公がここを居城にしたそうですが、その後
江戸時代に入り、「徳川家康(とくがわ・いえやす、1543-1616。安土桃山・戦国時代の武将・大名、征夷大将軍に任ぜられて江戸幕府をひらく)」の命で「廃城」の憂き目にあいます。
余談ですが、「徳川家康は織田信長の同盟者(実際は「主従関係」)」であったことが知られているのですが、そういった経緯があるのにも関わらず、信長が「本能寺の変(1582年)」で自害したのちだといえど、かつての主君が居城としていたこの「岐阜城」を廃城に追い込んだ、という史実には少し驚きました。戦国の世、さまざまな駆け引きがあったゆえでしょうか。
その後、明治に入って再建された城は火事で焼失してしまい、戦後になって現在の天守閣が再建されたとのこと。昭和31(1956)年のことだそうです。

木陰の中を進みます。
おかげで暑さはあまり感じないのですが、蝉しぐれが延々と続いていく中です。
「かつてあった有力者の爭い」ということに翻弄されたのはここ「岐阜城」だけではないのでしょうが、少し歴史をひもといてみますと、興味深いものを感じたりします。

「山頂駅」から歩いて10分ほど経ったでしょうか、急な階段などを登ってなかなかどうして息切れして来た頃、白亜のお城が深い木陰の中に浮かんで来ました!

「道三・信長ゆかりの岐阜城」…これは迫力がありますね。もう少しだということがわかったので、いましばらくがんばれそうです(笑)

少し拡大してみます。白い城壁に、秋のはじまりを感じさせられる広い空が実に印象的で、しばらく見とれてしまいました。
この光景に出会えただけでも、はるばる来た甲斐があったものだな、などと感じた次第です。

さて、お城までの道中、その脇からこの「馬の背登山道」が近づいて来ました。
先ほどの「ロープウェー山麓駅」で案内を見かけたものですが、やはりというか、これは初心者向けではないですね。というか、なかなか過激?な文面を見る限り、相当サバイバルな感じのルートのような…
ただ、お城が作られた時代には「ロープウェー」などもちろんありませんから、山の上のお城へ向かうにも大変な苦労があったことが伺えます。しかし、大変だったでしょうね…

お城の真下にやって来ました。「山の上にある城」なので、必然的にまわりの敷地は狭く、近くでは城全体をカメラに収められないほどでした。

お城の入り口付近ですが、そういったことで結構な急こう配になっていました。
平地にあるお城と比べ、こまかいところにまで差異を感じます。

その出入り口付近には、こちらの古びた時計が建っているのを発見したのですが…

戦国時代、西洋から伝来した技術を用いて製作された時計だとのこと。
「お城時計」というそうですが…

文字盤を観察してみますと、「十二支」が記載されています。
その横に数字も併記されているのですが、時代劇などでよくみかけるものですね。

かたわらには、この「日時計」も建っていました。当時、使用されていたものなのでしょうか、結構古びているように見受けられます。

上部には、先ほどの「お城時計」のそれと同じく「十二支」、そして「東西南北」という方角が記されていることがわかります。
この上に「三画定規」のような形状の柱を立て、太陽や月の光を受け、そこから延びる陰を用いて時間を判別していたようです。時計を当たり前のように使用している現代からでは原始的に感じるものですが、昔の人はよく考えたものですね。

こちらでも、いろいろなことに感嘆しきりです。おかげでなかなか歩が進みません(笑)
急ぐ旅ではないので、これもまたよしとしたいと思います。

こちらの「岐阜城の由来」を拝見したのち、ようやく「天守閣」に登楼することにしました。ここは「山頂」なので、景色が実に楽しみです。
次回に続きます。
今日はこんなところです。