「全国のJR線、普通列車が乗り放題」という「青春18きっぷ」を使い、大阪から岐阜へと日帰り旅行をした際の記録をシリーズでお送りしています。

「大阪駅」のひとつ向こう、「尼崎駅(あまがさきえき、兵庫県尼崎市)」から乗車すること1時間20分ほど、到着したのはここ「米原駅(まいばらえき、滋賀県米原市)」です。すでに「滋賀県」も東端に近づいた、という場所です。
ここで「新快速」を下車します。

まだ朝の9時半過ぎなのですが、コンコースには「駅弁屋さん」が店を出しています。
なかなか旅情をそそる光景ですが、ここ「米原駅」は「東海道新幹線」と「北陸方面との特急列車との結節点」ということで、相互の乗り換え客が多いゆえ、ということを感じさせられます。

ところで、目的地の「岐阜」はまだまだ先です。
この先も同じ「東海道本線」なのですが、管轄している会社が「JR西日本」から「JR東海」へと変わるということもあり、一部の特急列車以外では必然的に「乗り換え」が必要になって来ます。
この日も、乗車して来た「大阪・京都方面」からの「新快速」から下車した乗客が一斉に「岐阜・名古屋方面」の列車へ乗り換えのため駆け出して行く姿が見られました。この駅では「おなじみの光景」ではあるのですが…

今回は特に急ぐ旅ではないので、その波から外れて改札を出ます。
いつも通過するばかりの駅ですので、駅の周辺を少し散策してみることにしました。

ところが改札を出ますと、すぐ正面にこんな横断幕があるではないですか!これはいったい…


なかなか熱狂的というか、さまざまな文句が並んでいます。でも「みっちゃん」って…
また、「東海道新幹線の列車名」がうまく使われていることが気になります('ω')ノ
実はこれ、ここ「米原」のとなり、「彦根城(当時は佐和山城=さわやまじょう=)」を拠点としていた戦国武将、「石田三成(いしだ・みつなり、1560-1600。安土桃山時代の武将・大名、豊臣家の家臣)」にまつわる、一般から募集したメッセージを市の商業観光課が掲出しているものだとのこと。
もっと言いますと、いま話題の「NHK大河ドラマ」、「真田丸」の放映に合わせた期間限定の企画だそうで、そういえば先日ヤフーニュースで見かけた記憶がありました。
(参考)
ヤフーニュース
「石田三成ゆかりの米原駅に現れた横断幕
三成への愛が溢れすぎてやばいとTwitter民ざわつく」(配信 ねとらぼ、8月26日付)

メッセージを見ていますと、確かに熱狂的なそれが多いですね(;'∀')
一般的には「関ケ原の戦い」で西軍、つまり豊臣側の指導者として戦った、ということで知られている「三成」ですが、この時に対峙したのがのちに200年以上にわたって続く、安定政権「江戸時代」の礎を築いた「徳川家康」ということで、あまり肯定的な視点で顧みられることがなかったと言われています。
ただ、領地としていた現在のこの周辺においては「領民を大切にしていた」ということが広く知られているそうで、「関ケ原の戦い」で敗北し京で処刑されたのちも、当地の住民は藩内あちこちで地蔵を建立し、三成の菩提を弔ったという伝説も残されているそうです。
「ぜひ大河(ドラマ)化させましょう」といった文句も見られますが、殊にこの時代ですとさまざまな武将が燦然と存在していますし(現在の「大河ドラマ」での「真田幸村」もそうですが)、意外な人間関係というのか、「信長・秀吉・家康」といった「大人物」からではなく、それを支えた家臣たちからの視点で歴史を探求する、ということも実に大いに意義があることではないか、と思ったりします。
しかし、どれを見ても熱いですね…

その熱意に圧倒?されたのち、駅の東側へと出て来ました。すこぶる静かです。
というのも、新幹線改札、ホテルや市役所といった主要な施設がある「駅正面」は反対の西側ということで、こちらには空き地などが広がっています。

その一角、こんなモニュメントがありました。


「米原湊跡」と説明板にあります。かつて、ここ「米原」は鉄道が開業する明治初期までは港が設けられ、「びわ湖水上交通」の中心地だったとのこと。

現在の地図を見てみますと、「米原駅」から西方向(地図では左)の「びわ湖」までは
3kmほどでしょうか、離れていることがわかります。先ほどの説明では「堀を開削した」と記述があるのですが、これを見る限りではその痕跡はまったく失われたもののようで、現在では「米原に港」というのは想像もつきません。

明治の初期ですから、100年少し前まではこのような帆船が自在に、湖上を走り回っていたのですね。「水上」から「鉄道」へとその主役が交代しても、ここ「米原」はいまも昔も「交通の要衝」という役割に変わりはないことを感じさせられます。
いま少し、駅周辺を散策してみたいと思います。
次回に続きます。
今日はこんなところです。