JR北海道 全線完乗への道!その27 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。
表題の旅は第2日目、次第に夕刻に近づいて来ました。
ここは「深川駅(ふかがわえき、空知管内深川市)」です。

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雰囲気のあるホーム屋根、跨線橋です。駅舎の側もそうだったのですが、降雪対策なのか、これら上に設けられている赤い骨組みがいかめしい印象です。

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さて、ここから乗車する「増毛(ましけ)ゆき」が入線して来ました。
この駅から日本海沿いに向けて分岐している「留萌本線(るもいほんせん)」に向かうものですが、列車自体は旭川始発のもので、ここで20分ほど停車します。

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今回の旅では「1両編成のディーゼルカー」によく出会うのですが、この列車もやはりそれでした。ただ、旧・国鉄時代からの主力である「キハ40形」ではなく、こちらはステンレスの銀色が特徴の「キハ54形」という車両です。

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ところで、乗車する前にこちらをご覧頂きたいと思います。

JR北海道、運転再開の日に留萌線の一部廃止を届出…最終運転は12月4日に
JR北海道は4月28日、運転を再開したばかりの留萌本線留萌(北海道留萌市)~増毛(増毛町)間16.7kmについて、鉄道事業の廃止を国土交通大臣に届け出たと発表した。
同社の発表によると、届出上の廃止予定日は2017年4月29日。ただし沿線自治体が廃止に同意していることから、JR北海道は国交相による意見聴取の場で廃止日の繰り上げを陳述する方針だ。これが認められた場合、JR北海道は廃止日を今年12月5日に繰り上げ、12月4日限りで列車の運転を終了するとしている。

留萌本線は、深川~留萌~増毛間66.8kmを結ぶ鉄道路線。このうち海沿いの留萌~増毛間は1921年11月に開業しており、94年以上の歴史を持つ。今年2月に発表された同区間の収支状況(2014年度)によると、1日の平均通過人員(旅客輸送密度)は39人。管理費を含む営業係数(100円の営業利益を得るための営業費用の指数)は4554円に達しており、JR北海道の在来線ではワースト1の赤字路線となっている。
このためJR北海道は2015年8月、沿線自治体の留萌市と増毛町に同区間の廃止計画を提示。その後の協議の結果、今年4月に廃止の同意を得られたことから、今回の届出に至った。
最近は雪どけの時期に雪崩や土砂崩壊の恐れがあっため、長期に渡って運休を余儀なくされるケースが増えていた。今年も2月12日から運休し、4月28日に運転を再開したばかりだった。
留萌~増毛間では1日に上下合わせて6往復半(休日は5往復半)の列車が運行されている。一方、地元バス会社の沿岸バスは、同区間で1日9往復のバスを運行している。
(「レスポンス」平成28年4月30日付け配信)


JR北海道、留萌線留萌~増毛間の12月廃止を正式決定…廃止日を繰上げ

JR北海道は6月28日、留萌本線の留萌(北海道留萌市)~増毛(増毛町)間16.7kmについて、廃止日を12月5日に繰り上げると発表した。これにより同区間は12月4日限りで運行を終了することが正式に決まった。
留萌本線は、深川~留萌~増毛間66.8kmを結ぶ鉄道路線。このうち海沿いの留萌~増毛間は利用者が極度に少なく、JR北海道は4月28日、同区間の廃止を国土交通大臣に届け出た。
鉄道事業法では、鉄道事業を廃止する場合は廃止日の1年前までに届け出なければならないと定めており、JR北海道も届出の日から1年後の2017年4月29日を廃止日として届け出ていた。ただし、国交相が関係各者の意見聴取を行い、廃止日を繰り上げても公衆の利便を阻害する恐れがないと認めた場合は、廃止日を繰り上げることもできる。
JR北海道の今回の発表によると、北海道運輸局が6月9日に関係各者への意見聴取を実施。23日には国交相が廃止日の繰上げを認めてJR北海道に通知した。これを受けて同社は6月28日、廃止日を12月5日に繰り上げる届出を行った。
(「レスポンス」平成28年6月30日付け配信)

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「留萌本線」とは、空知平野の北端にあたるここ「深川駅」から北西へ分岐、古くから「天然の良港」として知られ、線名となっている「留萌(るもい、留萌管内留萌市)」を経由、西へと向きを変えて「増毛駅(ましけえき、同増毛町)」へと至る路線です。

ただ、上述の通り、この「留萌本線」のうち日本海沿いの「留萌~増毛間」の部分廃止が先月28日、正式に決定しました。この区間は利用状況が著しく低いことと、路線の保全状況(路盤が脆弱、また融雪時に雪崩の恐れがあるなど)がよくないということで、ついに廃止の動きとなったようです。

廃止の噂はたびたび耳にしていて、それまでにぜひ乗車してみたいと思っていました。日本海の車窓に味わい深いものがあるということなので、楽しみです。

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旭川駅からの列車でしたが、この駅でどっと降車がありがら空きになりました。最前部のクロスシート(進行方向に向かって座れる座席)が空いていたのでここに陣取ります。

発車までしばらく待つのですが、ここから眺めた車内の様子…
JRではないような感を受けます(画像正面の仕切りや扉のあたりが南海電車の内装に似ているように感じました)。

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いよいよ、深川を発車します。旭川ゆきの特急列車からの乗客が加わり、座席がさらっと埋まります。

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深川を出て、函館本線と別れたあとはすぐこの一面の水田の中を走ります。

今回の旅のお供、「各駅停車全国歴史散歩 北海道1・2」(北海道新聞社編 河出書房新社刊 昭和54年6月初版 絶版)の中にこのようなくだりがありました。

北の水田
  秩父別(ちっぷべつ)から石狩沼田(いしかりぬまた)へちっぽけなディーゼルが走る。石狩平野の北端を占める肥沃な土地が車窓の左右に広がる。北海道の水田は一枚一枚の広さが、本州に比べ大きいような気がする。それだけにわびしさも漂う。厳しい気候条件、冷害におびやかされつつ、農夫はなぜ田を捨てようとしないのだろうか。
  その原因の一つには、開拓入植者たちから脈々と引き継がれる忍耐強い気風が挙げられるだろう。稲が作れたなら、米が食えるなら―。日本人の食生活とどうしても切り離せない米の魅力が、何度自然に痛めつけられてもまた農夫たちを田に立たせた。品種改良もその熱意から生まれた産物だろう。
  その努力に水を差すことはできない。米がダブつく現状なら、休田も一方法ではある。ただしそれを一度に進めるには、北の水田は余りにも雪解け水と農夫の汗、涙を吸い取りすぎてしまった。(P434)

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「北海道」という大自然の中に、明治初期からの開拓史で、移住して来た人々のさまざまな労苦があったことについてはこの旅行記で幾度か取り上げておりますが、薄暗くなりはじめた空の下、ここ「空知平野」の豊かな耕作地が築かれるまでも計り知れない辛苦があったのかと、考えさせられる光景でした。

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水田の中の駅々を通り過ぎたところで、この「石狩沼田駅(いしかりぬまたえき、空知管内雨竜郡沼田町)」に到着。この空の中、花壇のチューリップにほっとします。

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では、この駅についても…
「各駅停車全国歴史散歩 北海道1・2」から拾ってみます。

先駆者の名を町名に 石狩沼田

文明の足音
 沼田町の西南に北竜(ほくりゅう)、雨竜(うりゅう)町が連なっている。元をただせば一つの村であった。
北海道のどこへ行ってもそうなのだが、開拓の祖は華族だったり、藩を追われた武士だったり、本州の小作の二、三男だったりする。
「食」を得ようにも「職」がないから、人々はただ広い未開の原野に立ち向かい、一日中クワを振るうしかすべがなかった。だから新しい文化に接した時の反応は大きい。
  たまに話を脱線させ、この地方の「文明開化」のようすを探ってみよう。
村人たちに人気があったのは「越中富山の薬売り」だった。薬荷を背負い着物の裾を端折り、洋ガサを手にして年に一、二度、各戸を回る。
  沼田の入植者は富山県人がその初めであったからなおさら、薬売りは懐かしい内地故郷の便りを運んでくれるものとして親しまれた。(後略)

沼田喜三郎のこと
  石狩沼田の駅名は、沼田喜三郎所有の農場内に明治四三年駅が設置されたことによる。北竜村から大正三年、上北竜村として分村したその後、村名も沼田と改称されている。
  現在も町名に名を残す沼田喜三郎(ぬまた・きさぶろう、1834-1923。越中国砺波郡、現在の富山県小矢部市出身)とはどんな人であっただろうか。
  故郷の富山県から一八戸を引き連れ明治二七年から開墾を始める。積極的な機械農法を取り入れ、当時政府が「見込みなし」と禁止していた米作にも挑戦。穀倉地帯の礎を築いた。
  製材工場、土功組合の創立の基をつくるなどその功績ははかり知れない。留萌線建設の際には、惜しげもなく鉄道用地、市街地路地、沼田駅敷地、線路土採場などの寄付を申し出た。留萌線が他にも候補として挙がっていたルートを取らず、沼田を通過したのも喜三郎の政治力であった。駅の開設は当時「不自然」とさえ言われたごく近隣の北竜からの分村をも促すきっかけになったのであった。
  教祖的のみならず、自ら率先して荒れ地の木の根を一つ一つ、汗で掘り起こした行動が、町に駅に、その名をとどめた理由だろう。古い沼田町史には「三度の食事の膳に残った皿、椀に湯をそそぎ和して呑み、天物を粗末にしなかった。常に腹八分目主義だったので食事直後に来客があると(もてなすために)改めて附合をして常人一人並の食事をすることが稀ではなかった」とその人柄が記されている。
(出典 P436-437)

「北海道の地名」といいますと、もともと使用されていた「アイヌ語」の呼称に漢字を当てたもの、またそのアイヌ語呼称を意訳したものが多いのですが、こちらの例はそれとまた異なる事例で、開拓に尽力した人名からの命名なのですね。しかし、この「沼田喜三郎さん」の例では、厳しい開拓事業の中でも人徳でそれを牽引されていたことが、地名の由来になっている事実から伺えます。きっと、人々にとって大きな存在だったのではないかと思われます。

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いや、感心することばかりです。といいますか、これまで国内旅行をしている中では全然知らなかったことばかりに出会う、今回の旅です。

その「石狩沼田駅」を出発、次回に続きます。
今日はこんなところです。