みなさんこんにちは。前回からの続きです。

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旅も「第2日目」の午後3時過ぎ、「滝川駅(たきかわえき、空知管内滝川市)」です。
ここからは「深川駅(ふかがわえき、同深川市)」へと向かいます。この先には、今回の乗り鉄の旅で「メインイベントの路線」が控えているので、楽しみなところです。

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「全日本 鉄道バス旅行地図帳2016」(小学館、平成28年発行)より。

「滝川~深川間」には「江部乙(えべおつ)、妹背牛(もせうし)」の2駅しかないのですが、地図をみますとこれら駅間の距離が相当にあります(23.1km)。
そういうことでたった2駅とはいえ、20分ほどの所要時間でした。

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延々と広がる「空知平野」を快調に飛ばし、「深川駅(ふかがわえき)」に到着しました。昨日は車窓から眺めるのみでしたが、今日はこちらで途中下車します。

ホーム屋根を上から支えている骨組みが特徴的ですが、降雪対策でしょうか。

昨日、この駅を通過した際の様子はこちら↓
当ブログ
「JR北海道 全線完乗への道!その14」(2016年6月14日アップ)

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改札まわりの様子です。先ほどの「滝川駅」と同様、特急列車が停車する主要な駅なのですが、こじんまりとした印象です。

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次の列車までは1時間ほど待ち時間があるので、このこざっぱりとした印象の駅舎周辺もじっくりと観察出来ました。
北海道の旅では幾度か通過すれども、下車するのは初めての駅です。

では、この駅については「各駅停車全国歴史散歩 北海道1・2」(北海道新聞社編 河出書房新社刊 昭和54年6月初版 絶版)から拾ってみたいと思います。

環状列石のある米どころ 深川

”伝説の楽園”跡の環状列石
  深川市音江町を南北につらぬき旭川、札幌をむすぶ国道12号線ぞいの丘の上に先住民族の住居あるいは墓の跡といいつたえられる、環状列石(ストーンサークル)がある。
  それは向陽とよばれる海抜一一三メートルの丘で、稲見山山頂付近は、北の麓を蛇行する石狩川の光沫がシラカバ林の樹間にゆらめく見晴らしのよいすばらしい場所だ。それも道理、このあたりはアイヌ語で「オトエボク」(食べ物の豊かな日あたりのよい丘)とよばれる”伝説の楽園”だったといわれる。
  明治二○年ころ、小野寺丈造という人が直径二○センチの金色の球を発見したのがきっかけで、この環状列石の下からヒスイの飾り玉、朱塗りの小弓や縄文土器が発見され、鳥居龍蔵(とりい・りゅうぞう、1870-1953。徳島県出身。人類学・民俗学・考古学の権威)博士によってツングースの墳墓である、と説かれひろく世界の学者に知れわたった。(後略)

時ならぬUFOとの交信基地説
  音江の場合、らせん状に配置された列石は表面にたくさんの小さな穴があり、結晶がはめこまれている。(中略)
「土中から検出されたリンやカルシウムといった人骨の主成分をなす元素がふつうの土中の含有量を上まわっていない」(中略)「ストーンサークルのある付近ではUFOの目撃率がきわめて高い」ことを注目する人もいる(武内裕「日本の宇宙人遺跡」)。しかし、UFO熱もいまは語り草、田園はまたもとの静かさに返っている。

これは意表をつかれましたが、ひところ話題になった「ストーンサークル」ですか…
「古代の日時計跡」とか「祭事の場所」などといった説がありますね。実は、個人的にはこのような話はロマンがあって割と好きなのですが、記述を見る限りでははっきりしなかったようで、それならそれで謎に包まれている方がいいかも知れないですね。

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広い駅前のロータリーには、バスやタクシーよりも、列車で帰宅して来た人を出迎えるためでしょうか、自家用車の方が多く目立ちました。今回の旅、このような光景をあちらこちらで見かけます。

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そんな中、目にとまったのがこの「深川」バス停なのですが…

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平成7(1995)年まで、この「深川駅」からは、宗谷本線の「名寄駅(なよろえき、上川管内名寄市)」まで「深名線(しんめいせん)」というローカル線が分岐していました。

沿線は道内きっての豪雪地帯として知られており、また沿線人口も非常に少なかったそうですが、国道など道路の整備が進んでいなかったために、赤字ローカル線でありながら平成の世まで生き延びた路線でした(路線廃止後、このバス停から「ジェイアール北海道バス」が代替便を運行)。

バス停の案内にもありますが、沿線の見どころとしては「朱鞠内湖(しゅまりないこ)」がありまして、人造湖でありながら豊かな自然で人気のあるところだそうです。
当時、わたしは高校生で廃止の報をなにかで耳にした際、この「朱鞠内」という印象的な地名、また「沿線には大自然が残っている」ということでどうしても乗車してみたかったのですが、それはかなわず、残念な思いをした記憶があります。機会が出来ましたら訪問してみたいところです。

では、続きです。

神武以来の大工事で米どころに
  雪どけのおそい北空知の豊かな沃土が顔をのぞかせ、春光にぬるみながらも、雪どけ水をはこぶ母なる石狩川の春。その雄々しいうねりのほとりに深川市がある。北空知平野きっての田園都市で、秋ともなれば波うつ黄金の波―米の年産七五万俵(五二年)を数え、全道の市町村中でも一、二位。有数の米どころだ。
  明治二六年(一八九三)深川村が誕生。同年、菊亭脩季(きくてい・ゆきすえ、1857-1905。山城国出身の貴族院議員。開拓使御用掛を経て石狩・空知地方を中心とした農場開発に従事した)侯爵が一一五○ヘクタールの農場を開き、一○○戸の団体入植で開拓の第一歩を踏みだしたが、その前年。音江地区で水稲の試作に成功している。
  明治二八~二九年に屯田兵一○○○戸が入植、その人々のなかで水田作りをはじめる人が多くなって、今日の米どころの基礎をつくった。
  その豊かな大地を約束した原動力は、用水路の建設による造田だ。先頭に立ったのは菊水農場の支配人だった東武(あずま・たけし、1869-1939。奈良・十津川村出身の衆議院議員。空知地方の開拓に尽力した)。
  「北海道庁を通じ内務省に石狩川から分水して五○○○町歩を造田するのだというと『そりゃ無謀じゃないか』と真面目な顔で反問する。さもありなん。内地は五○町歩の造田は真に大事業と見られていたので、五○○○町歩の灌漑溝は神武以来空前の大工事だったのだ」(若林功「北海道開拓秘録」)。

「北海道開拓」の歴史の中でも「空知地方」、殊にこのあたりは「北空知」と呼ばれるそうですが、最初期に開発がはじまったところでもあり、現在では道内随一の米作地帯となっています。先ほど、車窓からも端が見えないほど広大な田園地帯が続いていたのですが、本州などと比べて桁違いの規模開発の様相が伺えます。

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そういった事情を知ってか知らずかですが、こちらの駅構内に併設されていた「深川物産館」に立ち寄ってみますと…

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なかなか、気になる名産物が盛りだくさんでした。左上の「そばめし」という、そばの実がたくさん入ったおにぎりが一番人気なのだそうですが、すでに売り切れでした。
店内の品ぞろえも、どちらかというと「健康志向」な商品が多くありまして、見るだけでも楽しいひとときでした。

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また、この深川には「ウロコダンゴ」という名物があります。

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「Wikipedia #ウロコダンゴ」より。

切り分けられた団子の断面が名称の由来のようにも思えますが、当時、北海道で多数漁獲量を誇っていた「ニシン」のウロコから想起したものだとのこと。

実はわたしは甘党なので、こういった和菓子には目がありません(^^)v
小さく切り分けられたものを購入してみたのですが、もちもちとした、ういろうのような食感でおいしく頂きました。米粉を使用しているとのこと、結構おなかがふくれます。

「豊かな耕作地帯」という「深川」の一面を垣間見ることが出来たようです。

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ちなみに、「深川」の名称は、市内を流れる川の様子をアイヌ語で「オーホ・ナイ(深い・川)」と称した意訳(この河川は、現在「大鳳川(おおほうがわ)」と呼ばれている)とされています(諸説ありとのこと)。
余談ですが、この地名を耳にすると東京・深川」を想起するのですが、それとはいっさい関係がないそうです。

さて、この後は今回の旅で「メインイベントのひとつ」ともいえる「留萌本線(るもいほんせん)」に乗車することにしています。この駅から分岐している路線なのですが、以前から乗車してみたいと思っていました。大変楽しみです。

次回に続きます。
今日はこんなところです。