みなさんこんにちは。
「碓氷峠鉄道文化むら」(群馬県安中市)を訪問しています。

屋外の広大な敷地にひろがる「車両展示」を拝見しています。
「電気機関車」が中心なのですが、それ以外にもシブいチョイス(?)の車両群が展示されています。

こちらは「ディーゼルカー(気動車)」、「キハ35形」という形式。
「ロングシート(窓に背を向けて座る座席)」が設置された、通勤向けの車両です。

側面からでもなのですが、正面から見ますと角ばったデザインがより印象深い車両なのですが・・・

車体側面の「客用扉」です。ただ、通勤などで見慣れている車両のそれとはちょっと異なる印象を受けます。

そうです、扉が「外吊り式」になっているのです。
地方線区では、ホームの高さが低い駅が多くあり、そのためには「昇降用ステップ」を車両側に設ける必要がありました。ただ、そうするためには車体全体の補強や、それに伴う車体重量の増加などが発生するとのことで、このような形態になったようです(ディーゼルカーで、「扉が一枚」の車両では「出入口が一段低くなっている」タイプが多いのですが、それと比較して、この車両のように「扉が二枚」だと強度の面で問題が生じる、ということだそうです)。

そして、車体下部には波状の「ビード板」が設けられています。
「朱一色」なのですが、実はこの車両は「塩害防止目的」の「ステンレス製」で、登場した当時は塗装が施されていない、地肌がむき出しの「銀色」だったそうです。

この操作ボタンが設けられているのは「半自動ドア」の証です。
「通勤車両」というカテゴリーですが、ローカル線での使用も想定したためでしょうか。

説明文には「関西本線(かんさいほんせん、現在のJR大和路線)天王寺口を皮切りに活躍」と記載があります。
この「天王寺口」こと、「天王寺駅(大阪市天王寺区)」から奈良方面へと延びる「関西本線」の沿線は、昭和30年代から沿線人口が急激に増加して来たのにも関わらず、さまざまな理由で「電化」は先延ばしにされていて、その乗客輸送のために導入された経緯があります。
結局、「湊町(みなとまち、現在のJR難波)~奈良(奈良県奈良市)間」が電化されたのは「昭和48(1973)年」と、関西近辺の旧・国鉄線としてはかなり遅い部類での「電化」となりました。
いつも通勤でお世話になっている路線なのですが、意外な歴史があったものです。
次回に続きます。
今日はこんなところです。