JR東日本 全線完乗への道!その53 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。
かつての「横川機関区」を活用したという「碓氷峠鉄道文化むら」(群馬県安中市)、その施設内にあります「鉄道資料館」を拝見しているところです。

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名称にもありますように、この施設は「群馬・長野県境」の「碓氷峠(うすいとうげ)」越え、すなわち「信越本線・横川~軽井沢間」という区間の歴史についてピックアップした展示が多くなされています。

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そんな中、この「碓氷峠の証人」という展示がありました。

「横川~軽井沢間」に鉄道が開業したのは「明治26(1893)年4月」ということですが、当時の技術では「国内屈指の急勾配が続くこの区間に線路を敷設する」、ということには大変な苦労があったようです。

そんな中、この展示にあるように「急勾配の克服に特化した機関車」が次々と投入されていきました。

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展示を巡って行きますと、渓谷に架かる「鉄橋」(奥)と「レンガ橋」(手前)を渡る列車の模型が展示されていました。なかなか迫力がありますが・・・

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そういえば、この「鉄道文化むら」のエントランスに、こんな「レンガ積みのアーチ」があったことを思い出しました。
実は、模型で再現されていた「レンガ橋」は実際に「碓氷峠越えのため最初に建設された路線」で、昭和38(1963)年まで使用されており、その後は奥に見える「新線」に切り替えが行われました。

ところで、そのように「新線に切り替えた理由」ということと、この「碓氷峠越え」の鉄道にまつわる話を取り上げたいと思います。

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同じ「鉄道資料館」内にあった「碓氷峠用語辞典」なる展示です。
この区間の鉄道について語る上で重要なことがらが挙げられていたので、これをお借りして記事を進めて参りたいと思います。

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まず、最初の「アプト式」から。
これについては、施設内の複数の場所に詳しい展示がありました。

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通常、「鉄道」と言いますと「動力を有する車両がレール上で車輪を使用して走行する」ということを想像するかと思います。

それを「粘着運転方式(ねんちゃくうんてんほうしき)」と呼ぶのですが、車両やモーターなどの技術が発達していなかった時代、つまり「碓氷峠越えの鉄道が開通した頃」は「粘着運転方式」では、このような「急勾配」での走行が困難であったため、2本のレールの間に「ラックレール」と呼ばれる「第三のレール」を敷き、車両側に取り付けられた歯車と噛みあわせることで、急勾配での走行をしていました(「ラックピニオン」方式と呼びます)。

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中央に取り付けられている、歯型のレールが「ラックレール」と呼ばれるものです。

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横から見たところです。「ラックレール」が3本、固定されています。

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屋外の「車両展示スペース」のわきに、この方式でのレールが実際に敷かれていました(線路の左側に設置されている長い板は「集電装置」。一般鉄道のように、頭上に架線は設けられていなかった)。

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ところで「ラックレール」を使用した区間は、先ほどから取り上げています「横川~軽井沢間のみ」でした。
ということは、その前後の区間は「粘着運転方式」という「通常方式の鉄道」だったので、必然的にそれらの「切り替え区間」が発生します。

上の画像は、その「ラックレールがはじまる(終わる)区間」を写したもので、この区間を「エントランス」と呼びます。運転上、「車両側の歯車とラックレールとの噛み合わせ」は非常に重要であったようで、この「エントランス入りの際」には、運転士は大変な神経をすり減らしたそうです(入り方を失敗すると、ラックレールや歯車を破損してしまうこともあったようです・・・)。

その「ラックレールと車両側歯車=ピニオンとの噛み合わせ」についても見て参りたいと思います。

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こちらは、「文化むら」の出入口すぐ脇にあった「記念碑」です。
「ラックレール」と「ピニオン」があしらわれているのですが…

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黒い○がちょうど、それらが噛みあっている箇所です。
「3本に束ねられたラックレール」とは言え、このようにうまく「歯車」を噛みあわせることは、かなり難しいことではなかったのでは・・・と感じました。

この「ラックレール区間」は、やはり保守・点検や運転の際にはかなり手がかかったようで、また、車両や電機技術の向上もあり、昭和38(1963)年には「粘着運転方式の新線」が建設されたことに伴い、すべて廃止されました。

次回は、その「新線」と「専用機関車」について取り上げたいと思います。
今日はこんなところです。