みなさんこんにちは。
「東京の下町を散策する」ということで、まずは「上野恩賜公園(うえのおんしこうえん、東京都台東区)」にやって来ています。
都心にありながらこれだけ緑が多く、また文化施設も複数所在していて、なおかつ駅から至近で気軽に立ち寄れる、というのはうらやましいところです。

この「上野公園」の南端にやって来ました。前回、取り上げました「西郷隆盛像」の真裏あたりです。
正面には「ヨドバシカメラ」がありますが、「パンダ」のイラストは「上野らしい」という感を受けます。関西では「パンダ=南紀白浜アドベンチャーワールド」ですが…

その「上野公園の南端」には、この旅初日でもお世話になった「京成電鉄」の「京成上野駅(けいせいうえのえき、東京都台東区)」があります。
「成田国際空港」へ向かう「特急スカイライナー」の始発駅です。

この駅は地下駅で、入口からコンコースへはエスカレータ、階段で移動するのですが、動線が広く取られていて開放感があります。

さて、この「京成上野駅」への地下線路、ずっとたどって行きますと「上野公園、それも「大通りの真下」をトレースしていることがわかります。
地図左側に広大な「JR上野駅」がありますが、わざわざ公園の真下に線路を建設したのは「敷地の都合」だったのでしょうか。
手元に、この「上野公園下」に「京成電鉄」が地下線路を建設した際の経緯を記した書籍がありましたので、少しご紹介したいと思います。
「民営鉄道の歴史がある景観Ⅱ」
(佐藤博之・浅香勝輔共著・古今書院刊 昭和63年7月初版) からです。

日暮里―上野公園(現・京成上野)間二・一キロメートルの開業は、昭和八(一九三三)年一二月一○日である。日暮里を出て、国有鉄道(注釈:現在のJR)をオーバークロス(線路、道路などの上部を跨ぐ交差方式)してから、終点の上野公園までの一・四キロメートルは、地下線として建設された。(中略)寛永寺(かんえいじ、地図上、青い○印)と記された地点の北方から、地下へ入っていくのが読み取れる(地図上、白い点線)。
この区間の工事は、寛永寺・図書館・美術館・動物園などによって、地下線として通過ルートに制限を受けること、さらに、上野公園内や、一部は御料地(ごりょうち。皇室所有地)の地下をくぐるため、建造物や樹木に損傷を与えないよう、当局から厳しい指示があり、至難と言ってもよいほどの制約を受けたのであった。そのため、地下線入り口で最急勾配四○パーミル(「100m進むと40mの高低差がある勾配」)の区間や、地下線内で最急半径一二○メートル(「円では半径120mとなる曲線」)の曲線区間が二か所、現在でもそのまま所在している。
ともあれ、東京の主要繁華街の一つである上野までの乗り入れの達成は、京成にとっては大きな成果であった。後年、都営地下鉄浅草線への乗り入れを実現し、都心の進出に成功(昭和35年12月、支線の押上線=おしあげせん の終着駅、京成押上駅を介し、都営地下鉄浅草線へ乗り入れを開始。日本で初めての”地下鉄と私鉄との相互乗り入れ”であった)しても、上野から出るこの線を「京成本線」としている根拠の一つは、遠くここまでさかのぼることができると考えられる。(後略)
(出典同 P144-146)
かつて、「京成電車」は「日暮里駅(にっぽりえき、東京都荒川区)」が終点だったのですね。そう言われれば「日暮里」という立地条件では、厳密には「都心乗り入れ」にはならなかったようですが…
「京成電鉄」にとっては「上野」という、古くから開けていた繁華街への乗り入れが悲願だったようです。ですが、時局は戦争へと向かいます。
第二次世界大戦も敗色が濃くなったこと、アメリカ空軍の空襲が激化するにしたがい、当時の運輸省の司令業務に支障がないように、どこか地下に司令室を設けたいと、いろいろ探した結果、京成電気軌道(当時の名称)の日暮里―上野公園(現在の京成上野)間の地下線区間を借り受け、戦時下で使用されないまま放置されている一・二等寝台車を、この地下線区間へ搬入し、宿泊施設も整った司令室に仕立てようということになった。
戦局が悪化してきた昭和二○(一九四五)年五月ごろから着工した。国有鉄道の日暮里駅南方(鶯谷方)の山手・京浜東北の両線の北行線の線路に、ポイントを入れ、京成の地下線入り口に向けて線路を敷いた。(中略)
日暮里駅南方からの寝台車の搬入作業には、当時の上野保線区の職員が当たった。毎晩、終電車が通ったあと、田端機関区から、入れ換え用のC11やC12などのタンク機関車を借りてきて、マイテ・スイテ・マイネ・マロネ・スロネ(いずれも当時の一等寝台車=現在のA寝台車。中には個室を備えた車両も存在していた)などの高級車両を、一両ずつ推進(すいしん。後ろから機関車で押して動かすこと)で、あの地下線に運び込んだ。その推進のとき、急勾配・急曲線の引き込み線上で、何回か機関車が脱線して往生した。高級車両を全部で二○両搬入した。車両と車両の間の両端に、爆風をよけるために砂のバッグを積んでいた。
終戦直前の七月に完成したが、ずい道(ずいどう。トンネルを指す)内の湿気のため通信線が通じず、通信の効用が発揮されなかった。あの当時は、通信線が裸線で、現在のように発達していなかったので、やむをえなかったと思う。結局、終戦までにその「地下司令室」は使用されず、「幻の司令室」に終わった。
聞くところによると、その地下線へ搬入した高級車両群は、終戦後すぐに引き出され、占領軍用の車両に転用されたという。
(出典同 P158-160)

いや、戦時中とは言え「都心の最も重要な区間の運転を取りやめさせる」というのは大変なことだったのでしょう。現在では想像もつきません。

さて、ここからは「特急 成田空港ゆき」に乗車します。

始発駅、ということで車内はご覧の様子。
と言いますか、この「京成上野駅」は「JR・地下鉄上野駅」からは距離があり、各線からの乗り換えは隣の「日暮里駅」が主になっているようです。
実際、「日暮里駅」からたくさんの乗客が乗り込んで来て、立ち客が出るほどでした。

隣のホームには「特急 スカイライナー」が停車していました。
デザインが斬新過ぎて写真に入りきらないくらいでした(笑)
というのは冗談で、「紺碧のブルー」塗装が実に目に鮮やかです。

次回に続きます。
今日はこんなところです。