みなさんこんにちは。
プロ野球「大阪近鉄バファローズ」、「藤井寺球場(大阪府藤井寺市)」にまつわる話題を取り上げています。

その「最終戦」から2か月ほど、このような記事が掲載されました。
朝日大阪朝刊(一面) 平成16(2004)年11月30日付け。

「オリックス球団」との合併、そして来季からの「東北楽天球団」のパ・リーグ参入と「新・オリックス球団」、「東北楽天球団」への選手の分配が正式に決定したのちのことでした。

実は、この「藤井寺球場」、「近鉄二軍」の本拠地であるとともに、府内の「アマチュア野球の聖地」として知られていました。
殊に、「高校野球」の大阪府大会のうち、準々決勝から決勝までは毎年、概ねこの「藤井寺球場」で開催されており、この年も「PL学園対大阪桐蔭」の決勝戦が行われました。この「閉鎖決定」という方針を受け、以後は大阪臨海地域に設けられた「舞洲(まいしま)ベースボールスタジアム」(大阪市此花区)にその役目を譲ることとなります。
ただ、「グラウンドと客席の距離が近い」であるとか「球場への選手の出入りの際に至近で観客が接することが出来る(もっと言えば”選手が自宅から球場へ自家用車で入る際、球場内の駐車場まで一般人が入れる”)」ということで人気だった「藤井寺球場」の閉鎖について、惜しむ声が多々見られました。
しかし、球場は築70年以上経過し、老朽化が著しいこと、また「新・オリックス球団」が神戸に二軍専用球場を保有している、といった事情から、先の報道からほどなくして閉鎖が正式に決定されました。

年が変わり、平成17(2005)年になりました。
ついに「藤井寺球場」の取り壊しが決定したのですが、別れを惜しむ市民・ファンらの声に応え、「藤井寺市民フェスタ」というイベントが企画され、そのメインイベントとして「最初で最後の球場一般開放」が6月になされることとなりました。
わたしも、最後の別れをすべく再び「藤井寺」へと向かいました。

球場へやって来ました。そこで遭遇したのが、この「近鉄物流」のトラックです。
「近鉄物流」とは、数ある「近鉄グループ」の子会社なのですが、そのトラックの側面には「近鉄バファローズ」の「猛牛マーク」があしらわれていることで知られていました。

ちょっと見にくいのですが…
このあと、「近鉄物流」は「近物レックス」という名称に変更され、特徴であった「猛牛マーク」も姿を消しました。

さて、球場前へやって来ました。正面ゲート付近には「対戦カード」を記したボードが掲出されていて、この場所から反対にあった「近鉄南大阪線」の電車からもよく見えました。

半年ぶりの訪問です。

「高くそびえるベージュ一面の壁面」、迫力があります。

グラウンド内に入りました。まず目に飛び込んで来たのが、先ほども取り上げた「猛牛マーク」です。

「牛の目」と「ツノ」が大変特徴的なマークです。
ホームベース付近に描かれていて、テレビ中継などでも大変目立っていました。

続いては、ダグアウトへ向かいます。このアングルからの眺めというものは、通常ではまず体験出来ないものですので(テレビ中継などで外から映されることは多いですが)貴重な体験でした。
こんな感じで選手、首脳陣はグラウンドを眺めていたのか…と感じます。
しかし、想像していたよりも狭いスペースでした。

その奥には「素振り室」があります。
「鏡」が設けられており、選手はここでバッティングの調子を整えていたのでしょうね。


なかなか見られないものばかりでしたので、少しく興奮しました(>_<)

続いては、外野グラウンドへ出て見ます。現役当時は、実に狭い球場だったがゆえ、ホームランが乱発することが多かったそうです。

「バックスクリーン」と、その後ろにそびえる「スコアボード」。
こちらも、目前で見ますとかなりの大きさであることがわかります。
正面左に掲出されているのは「藤井寺市の市章」だそうです。

バックスクリーンから1塁側へ少し移動したところです。
親会社である「近鉄電車」の広告がありますが、その後方に「無数のボール痕」が確認出来ます。数多くの試合が行われていた証左ですね。

今度は、客席を見てみます。6月で、初夏を思わせる陽気でした。空が広かったのを記憶しています。

「独特な鉄骨の照明塔」です。そして、客席には、グラウンドをじっと眺める人の姿も見えました。

残念ながら、この日は所用があり、あまり時間がなかったのでここで球場をあとにしました。
70年にもわたる数多くの想い出、歴史を重ねてきた「藤井寺球場」。
わたしも数十回、足を運び、観戦した「想い出の球場」でしたので、寂しいという気持ちでいっぱいでした。

朝日大阪夕刊 平成17(2005)年6月5日付け。
この「藤井寺球場開放イベント」の様子が掲載されていました。
印象に残ったのは、地元住民の方々からの「球場閉鎖を惜しむ声」が多かった、ということでしょうか。
この球場、まわりは住宅に囲まれていて、昭和50年代初旬まで照明設備を設けることが出来ず、ナイターは大阪城公園に近い「日生球場(にっせいきゅうじょう、日本生命野球場)」(大阪市中央区)や、当時、同じく大阪をフランチャイズにしていたライバル「南海ホークス(現在の福岡ソフトバンクホークス)」の本拠地であった「大阪球場(おおさかきゅうじょう)」(大阪市浪速区)を使用せざるを得ない状況でした。
その後、照明設備が設けられたのちも、周辺への騒音対策として「可動式の遮音壁」が設けられ、「鳴り物(太鼓、鐘、トランペットなど)入りの応援」が禁止されるなど、ある種、他にはない「特別な雰囲気」のある球場でした。
また、「鳴り物応援」がない分「ヤジ」が通りやすく、その掛け合いは「名物」でもありました。そういった「昭和なパ・リーグ」の面影を残す「貴重な存在」でもあった「藤井寺球場」、とても大好きでした。
ほんとうにお疲れさまでした。ありがとうございました。
このイベントののち、球場は解体され、現在は私立「四天王寺学園」の校舎が建っています。
さて、ここで本題にもあります「東北楽天球団」の新監督になった梨田昌孝氏のコメントを取り上げたいと思います。
…背番号を問われると、梨田監督の声がひときわ強くなった。「日本一を目指す意味で99をお願いしたい」。そこには近鉄での現役時代の監督だった故西本幸雄氏との願いが込められている。「私の恩師である西本さんが8度日本一に挑戦してならなかった。2人で(日本シリーズに)10回出て日本一になっていない。一本足らないということで、99歳は白寿。その一本を足せば百になる」。近鉄、日本ハムの監督時代に1度ずつリーグ優勝を果たしたが、あと一歩のところで日本一を逃した。恩師も成し遂げられなかった悲願達成に向け、99番に思いを込めた。
(スポニチアネックス 2015年10月9日付け)
梨田新監督が「恩師」と慕う、近鉄選手時代に「監督」として仕えた西本幸雄(にしもと・ゆきお)監督(大毎オリオンズ=現在の千葉ロッテ、阪急ブレーブス=現在のオリックス、近鉄バファローズで監督を歴任)、そして自身が果たせなかった「日本一」という悲願が、その「背番号99」に込められているようです。
「いてまえ打線、猛牛軍団」の「近鉄球団」が消滅して10年が過ぎ、あの嵐のような「プロ野球再編」も風化しつつあるように感じます。
そんな中、「大阪近鉄」を率いた梨田新監督の手腕、そして「日本一という悲願達成」、そして、舞台は「東北」へと変わりますが、「かつての猛牛軍団の復活」ということを注視して行きたいと思います。
最後に、「大阪近鉄」が本拠地、大阪ドーム(現在の京セラドーム大阪)で「最終試合」を迎えるにあたり、梨田監督が選手に伝えた言葉をご紹介し、この項を締めたいと思います。
「最後まで胸を張ってプレーしろ。お前たちが付けている背番号は、すべて大阪近鉄の永久欠番だ」。
4回にわたりおつきあいありがとうございました。
今日はこんなところです。