ひさしぶりに「プロ野球」の話題について取り上げたいと思います。

「朝日大阪朝刊(スポーツ面)」 平成27年10月9日付けより。
先日、「東北楽天ゴールデンイーグルス」の新監督として、野球評論家の梨田昌孝(なしだ・まさたか)氏が就任しました。
まずは、その「就任記者会見」についての報道を、スポーツ紙から拾ってみます。
楽天・梨田昌孝新監督(62)が8日、コボスタ宮城で就任記者会見に臨み、2年連続最下位からの巻き返しを誓った。同席した星野仙一球団副会長(68)の前で、「自分たちのいいところを出していけば、5割前後の勝率になると思う」と分析。「日本一という一歩を目指す」との思いから背番号は「99」に決まった。3年契約で、秋季練習途中の18日に始動する見込みだ。
フラッシュの光に包まれながら、梨田新監督は、星野副会長とガッチリ握手。楽天球団史上6人目の指揮官誕生だ。
「星野副会長から『お前しかいない』と殺し文句のような言葉を(もらった)。気持ちは『感謝、感激、雨嵐』。最低でも5割を目指したい」。人気アイドルグループ、嵐の曲名を引き合いに心境を口にした。この日は中学時代に亡くなった父親の命日。前日7日に「東北、仙台へ行ってくる」と墓前に報告し、新たな一歩を踏み出した。
チームは2年連続最下位に終わった。大久保前監督は1年契約(年俸5000万円)だったが、3年契約で年俸1億円。星野副会長から長期でのチーム再建を託された。1軍のコーチ陣は2軍のチーフコーチだった仁村氏がヘッドコーチを務め、新たに与田投手コーチ(野球評論家)、池山打撃コーチ(前ヤクルト2軍野手総合)らを迎え、新体制が整いつつある。
今後は秋季練習途中の18日に始動する見込みの梨田監督。近鉄を率いた2004年に球団の合併、消滅を経験した。楽天は当時の球界再編で多くの近鉄選手が移籍して誕生した経緯があり、「生まれ変わりという印象を受ける」と感慨深げだった。
背番号は近鉄、日本ハムで監督として2度のリーグ優勝を果たしながら届かなかった「日本一という一歩を目指す」との思いから99に決定。今後の補強について「岩隈(マリナーズ)、田中(ヤンキース)が帰ってくれば盛り上がる。ドラフト? コメントは“なしだ”」と冗談を連発しつつ、「外国人だけは頼りにしている」と訴えた。
「日本一は憧れ、夢。リーグ優勝、日本一へ上を向いてやりたい」。“優勝請負人”がどん底のチームを立て直す。
楽天・星野球団副会長
「百戦錬磨。2年連続最下位の屈辱をはね返してくれるのは梨田監督しかいない」
梨田 昌孝(なしだ・まさたか)
1953(昭和28)年8月4日生まれ、62歳。島根県出身。浜田高から72年ドラフト2位で近鉄入団。捕手としてベストナイン3度、ゴールデングラブ賞を4度受賞した。88年に引退。通算成績は1323試合に出場、打率.254、113本塁打、439打点。バッテリーコーチ、2軍監督を経て2000年から近鉄の監督を務め、翌01年にリーグ優勝。04年の近鉄消滅に伴い退団。08年からは4年間日本ハムで指揮を執り、09年にリーグ制覇を果たした。
「百戦錬磨。2年連続最下位の屈辱をはね返してくれるのは梨田監督しかいない」
梨田 昌孝(なしだ・まさたか)
1953(昭和28)年8月4日生まれ、62歳。島根県出身。浜田高から72年ドラフト2位で近鉄入団。捕手としてベストナイン3度、ゴールデングラブ賞を4度受賞した。88年に引退。通算成績は1323試合に出場、打率.254、113本塁打、439打点。バッテリーコーチ、2軍監督を経て2000年から近鉄の監督を務め、翌01年にリーグ優勝。04年の近鉄消滅に伴い退団。08年からは4年間日本ハムで指揮を執り、09年にリーグ制覇を果たした。
(サンケイスポーツ 平成27年10月9日)

いまから11年前の平成16(2004)年6月に、当時の「オリックス・ブルーウェーブ」と「大阪近鉄バファローズ」との「球団合併」が発表され、それに端を発した「2リーグ制廃止・1リーグへの移行」が最大の焦点となった「プロ野球再編計画」が浮上、「社会問題」になりました。
ここからは、当時の新聞記事から、その経過を見て参りたいと思います。


経営者側の「近鉄・オリックス合併推進」の他に、パ・リーグの他チームにおいても「第二の合併計画」ということも持ち上がり、一時はその流れに向かったかのように見えました。
ただ、この動きは選手・世論の猛反発を浴び、選手側・経営者側の間で「一進一退の攻防」が繰り広げられることとなりました。


その結果、「史上初のプロ野球試合ストライキ」が行われるなど、大きな混乱が起こりました。

その「ストライキ」もかなわず、経営者・プロ野球機構によりついに「近鉄・オリックス球団の合併」が承認されてしまい、50有余年にわたって「パ・リーグの雄」として君臨した「近鉄球団」の消滅が決定します。

ところが、経営者・野球機構側の想定を遥かに超えた、選手・世論・ファンらの大規模な反発を受けて、「1リーグへの再編」という計画は軟化し、「新規球団の参入による2リーグ制維持」の方向へ事態は動きます。

そして、経営者・野球機構側の責任者、瀬戸山隆三(せとやま・りゅうぞう)日本プロ野球機構・選手関係委員長と、古田敦也(ふるた・あつや)日本プロ野球選手会会長(ヤクルトスワローズ選手会長・当時)との間で、「2リーグ制維持・新規球団の参入」という合意がなされました。

そして、「オリックス・合併球団」とは別に、「旧・大阪近鉄」の選手が中心となって設立されたのが「東北楽天ゴールデンイーグルス」という新チームでした。

「球団合併」が決定したのち、「消滅する大阪近鉄(とオリックス・ブルーウェーブ)から、新・オリックス球団と楽天球団に選手を分配する」という「分配ドラフト」なることが行われました。
写真は、礒部公一(いそべ・こういち)大阪近鉄・選手会長(当時)です。
これまで、同じチームで闘って来た選手たちが「2球団に引き裂かれる」ということになり、大変「ショッキング」なことでした。選手・球団関係者、そしてファンは、それこそ「身の裂かれるような思い」だったことが想像されます。
先の礒部選手は「オリックス球団への移籍」を拒否、「東北楽天」へ移籍しました。




そして「最終戦」を迎えます。
両球団の最終試合は、奇しくも「当事者同士」の「オリックス・ブルーウェーブ 対 大阪近鉄バファローズ」戦。
平成16(2004)年9月27日、「ヤフーBBスタジアム(現在のほっともっとスタジアム神戸)」で行われ、7対2で「オリックス・ブルーウェーブ」が勝ちました。
さて、「大阪近鉄の消滅」から早や10年以上が経過しましたが、先の記事に「(東北楽天は消滅した大阪近鉄の)生まれ変わりという印象を受ける」という一文が見られます。
今回、梨田新監督の就任の報を受けて、その「近鉄球団」を偲ぶ、ということで、「梨田新監督」が選手時代に活躍し、引退後は「バッテリーコーチ、二軍監督」としてチ
ームを支えられた「近鉄バファローズ・大阪近鉄バファローズ(1999年から後者へ名称を変更)」の本拠地、「藤井寺球場(ふじいでらきゅうじょう、大阪府藤井寺市)」で行われた「大阪近鉄バファローズ最終試合」、かつ「藤井寺球場最後の試合」の様子をシリーズでお送りしたいと思います。

「藤井寺球場」へやって来ました。
現在は「大阪の新名所」となっていますが、「あべのハルカス」がある「あべの橋」から「近鉄南大阪線」の準急列車に乗車することおよそ15分、「藤井寺駅(ふじいでらえき)」が最寄り駅のところです。
駅から大阪方面へ数百メートル戻った線路沿いにありました。
日付は、さきほどの「最終試合」から3日後の「平成16(2004)年9月30日」です。
先述したように、「大阪近鉄」の「一軍」としての試合は「9月27日」に終了していたのですが、この日はここ、藤井寺球場で「二軍(ウェスタン・リーグ)」の「最終試合」が組まれていました。

大勢の観客が、次々とやって来ます。
「ウェスタン・リーグの公式戦」は既に終了していたのですが、この「ウェスタン・リーグ」は「前期・後期制」になっていて、「前期優勝」を果たしたのは「大阪近鉄」でした。

「ウェスタン・リーグの優勝決定戦」として、この日、「後期優勝」の「中日ドラゴンズ」との「プレーオフ試合」が行われた、という訳です。
この試合に勝てば、宮崎・サンマリンスタジアムで開催される「イースタン・リーグ」との「二軍優勝決定試合」に出場出来ることになっていました。

この時点で、残念ながら「大阪近鉄バファローズの消滅」は既に決定していました。
ですので、ファンの人々には、「一日でも長く大阪近鉄のユニフォームを見たい」というような気持ちがあったに違いないと思われます。
ここで勝てば、宮崎での「二軍優勝決定戦への進出」。
負ければ、もう「大阪近鉄」としての試合はありません。

重厚な、まるで「西洋の城郭」を思わせる外観の「藤井寺球場」。
さっそく、場内へ入ってみたいと思います。
次回に続きます。
今日はこんなところです。