JR東日本 全線完乗への道!その39 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。
JR東日本 全線完乗を目指し、高崎駅から「八高線(はちこうせん)」に乗車しています。

さて、「駅弁」の種類が豊富な高崎駅で「昼食弁当」を購入しておりました。
時刻は午前11時前、昼食には少し早いのですが、腹も空いているので(笑)暖かい陽射しの車中で食事することにしました。

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高崎駅で購入したのは、パッケージがかわいらしい、この高崎名物の「だるま弁当」(@1000円)でした。

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同梱されていたメッセージカードです。
「普茶料理」という言葉も見られますが・・・
また、「だるまは皆様の幸福を願っております」というものも胸に響きますね。

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こちらが「だるま弁当」の全貌です。レシピを見てみますと・・・

茶飯、山菜きのこ煮、穂先竹の子煮、椎茸煮、コールドチキン、鶏八幡巻、花豆煮、黒こんにゃく、赤こんにゃく、栗、山くらげ、カリンコ梅、山ごぼう

とのことで、野趣あふれる、と言いますか、実にヘルシーな印象です。
これらのおかずの底に鎮座している茶飯も、大変味わい深くおいしく頂きました。

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弁当をおいしく頂いたところで、列車は「群馬県」から「埼玉県」に入りました。

またもライバル「東武鉄道」が寄り添って来ます。「寄居駅(よりいえき)」(埼玉県大里郡寄居町)にて。

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そこからは、山すそから徐々に離れて行き、茶畑が目の前に広がります。この周辺、「狭山茶(さやまちゃ)」の産地だそうです。

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さて、田畑が広がる風景の中にも、新興住宅が増えて来ました。そんなところで、車窓向かって左側から別の路線が近づいてきます。

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到着したのは「高麗川駅(こまがわえき)」(埼玉県日高市)です。
ディーゼルカーと電車が並んでいるということで、この駅は「電化・非電化路線」の境界駅です。

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駅周辺地図。上下に走るのが、ここまで乗車して来た「八高線」です。

そして、実にきれいな形状でまっすぐな直線が、右手へと分岐して行きます。
ここから「大宮駅(おおみやえき)」(埼玉県さいたま市大宮区)へ向かう「川越線(かわごえせん)」です。

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ここでも途中下車します。
朱色の屋根、柱が瀟洒な感じです。

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駅前ロータリー内、タクシー待機場を覆う箇所には、このような独特なモニュメントがありました。このような意匠はあまり見たことがありません。

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しげしげと観察してみますと、側面には、まるで太古の、祭事に使用されていたような「仮面」と思しきデザインが刻まれています。
このモニュメント、デザインなどを見るにつけ、ちょっと独特な、エキゾチックという感じも受けるのですが・・・


この「高麗川駅」については、
「各駅停車全国歴史散歩12 埼玉県」
(埼玉新聞社編 河出書房新社刊 昭和57年9月初版 絶版)から探ってみます。

帰化人のふるさと 高麗川
 
先進技術をもたらした高麗人
 
 高麗郷、高麗川駅周辺はこう呼ばれる。この地におよそ一三○○年前、進んだ大陸技術をもつ高麗人が移り住んだ。『続日本紀』(※注釈:しょくにほんぎ。平安時代初期に編纂された国史)には「奈良時代霊亀二年(七一六)、駿河、甲斐、相模、上総、下総、日立、下野七か国の高麗人一七九九人を武蔵国に移し高麗郡を置く」とある。高麗郡域は現在の日高町(ひだかまち=現在の日高市)、飯能市(はんのうし)、鶴ヶ島町(つるがしままち=現在の鶴ヶ島市)に入間市(いるまし)の一部をも含む。
 
 彼らのある者は剣を、ある者は筆を捨てて田んぼをつくり、畑を拓いた。そのかたわら窯業、紙漉き技術などをこの地にもたらした。それまではといえば
「分けゆけど花の千草のはてもなし 秋をかぎりの武蔵野の原」とか
「出づるにも入るにも同じ武蔵野の 尾花を分くる秋の夜の月」
(いずれも、先の「続日本紀」に掲載されている短歌)などと歌われた広漠たる武蔵野であった。
 
 「高麗人が帰化してって話は、地元で生まれても知らない人が多いですね。子どもたちも歴史で学んで初めて知るようです」と日高町役場職員。「一三○○年」はそれほど遠い過去なのだ。
 
(出典同 P114

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この「高麗(こま)」という地名は、古代・朝鮮半島の「高句麗(こうくり)」や「高麗王朝(こうらいおうちょう)」という名称が由来になったものです。

いまから1300年ほど前、朝鮮半島にあった「高句麗」が中国の王朝「唐」との戦争に敗れ、関東一円へ渡来して来た人々を、当時の為政者が、霊亀2(716)年にこの武蔵野の地に「高麗郡(こまぐん)」を設置し、呼び寄せたとの史実があります。

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以来、この「高麗郡」周辺で、渡来人たちの優れた技術が展開され、農耕、工業、その他方面にわたり、近代化への大きな足がかりになったようです。そして、そういった渡来人たちの心の拠り所となったのが、駅近くの「高麗神社(こまじんじゃ)」です。


”出世の神”高麗神社
 
 とはいっても、高麗人の足跡はあちらこちらに残っている。高麗川駅西方の高麗神社。ここは高麗郡が設置された時、首長を命ぜられこれを治めた高麗王若光を祀っている。高麗王若光は高句麗(高麗)が唐に滅ぼされ(六六八年)、四○年後に武蔵に入ったといわれる。(中略)
 
 高麗神社は、祖国を追われ武蔵の地に高い文化をもたらした高麗人の心の拠り所であった。それは近年は”出世の神”として広く一般から尊崇されるようになった。その由来を「大正から昭和にかけて、参拝した政治家が不思議と総理大臣や、大臣になったんです」と高麗王若光の子孫・高麗氏五九代目にあたる宮司さん。
 
 神社の記録をみると、確かに若槻礼次郎(※注釈:わかつき・れいじろう、1866-1949)、齋藤実(※注釈:さいとう・まこと、1858-1936)、浜口雄幸(※注釈:はまぐち・おさち、1870-1931。明治生まれでは初の内閣総理大臣)といった大正、昭和の歴代総理大臣が参拝後、その椅子についている。これにあやかろうというわけか、参拝者名簿には政界、学界、文壇、官界などの有名人がズラリ肩を並べる。(後略)

(出典同 P114) 

これは、偶然だったのでしょうか、はたまたご利益があったのでしょうか。

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駅構内には「高麗郡建都1300年」ののぼりがありました。
先ほども触れましたが、奈良時代の「霊亀2(716)年」に「高麗郡」が設けられて、来年の平成28(2016)年で「1300年」になることを祝した催事が計画されているようです。

古代の文化的先進地帯をいく
 
(前略)奈良時代には現在の日高町に高句麗の帰化人を集めて高麗郡が置かれている。大陸の先進技術をもった帰化人たちは窯業をはじめ、機織、土木工事、焼畑などの優れた技術をこの地に伝え、日本の産業、文化に大きな影響を与えた。日高町の高麗郷から飯能(はんのう)にかけては、帰化人たちが残した足跡が多く残っている。小川町(おがわまち)の手漉き和紙技術も、もともとは、高句麗から伝えられたといわれる。(後略)
 
(出典同 P112

ということで、今日は「歴史の勉強の回」になった感が強いのですが(笑)高い技術を持った渡来人たちの活躍の場だった、という訳ですね。

ただ、故郷を追われ、はるか遠方のここ、「武蔵野の地」で生涯を終えた人々の想いはいくばくかのものだったのかと考えますと、少しく複雑な気持ちにもなります。

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駅舎に戻ります。自動券売機の地図をしげしげと眺めていますと、いよいよ「首都圏に近くなったのだな」、という感を受けます。

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ここからは「八高線」からは一度離れ、この駅を起点とする「川越線」に乗車します。

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徐々に陽射しが強くなって来ます。
5月中旬とは言うものの、既に初夏のような暑さを感じます。

列車待ちの間、ホームの様子をあちこち見ていたのですが・・・

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こんな看板がありました。「身なりは正しく」。
一瞬、ドキッとしたのですが(笑)乗務員の方々に向けたものですね。

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次回に続きます。
今日はこんなところです。