SANZEN-HIROBAを訪ねて その50 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。
今日からは、「SANZEN-HIROBA」(さんぜんひろば)についての記事をアップして参りたいと思います。

ところで、この関連の記事を最後にアップしてから8ヶ月ほど経過していましたので、この「SANZEN-HIROBA」について、その概要をご紹介したいと思います。

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「SANZEN-HIROBA」は、「大阪と京都」を結ぶ「京阪電車」の「初の常設鉄道博物館」として、平成26(2014)年春に、沿線の「樟葉(くずは)駅」(大阪府枚方市)駅前にある、大型ショッピングモール「くずはモール」の増床に合わせ、その館内に開設された施設です。

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その「目玉」はこちらです。

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「昭和46(1971)年」から運用が開始された、「テレビカー」こと「旧・3000系」という車両が「静態展示」されていることです。

車内は「製造当時の意匠」に復元され、「テレビ」も「地上デジタル」のものが新たに取り付けられており、また、「運転台」では「運転シュミレーター」が体験出来るなど、魅力あるものとなっています。
また、展示コーナーでは、京阪電車が保管する資料などを「期間限定展示」しており、貴重な品を拝見することも出来ます。

このシリーズでは、主にその「期間限定展示」について、わたしの主観を織り交ぜながら、記事をアップしておりました。

「SANZEN-HIROBA」公式ホームページ(「くずはモール」内ページ)

過去の記事はこちらです↓
「SANZEN-HIROBAを訪ねて その49」(2014年11月4日アップ)

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と言うことで、「3月の上旬のこと」なのですが、その「SANZEN-HIROBA」へ出向いた際の「期間限定展示」をご紹介したいと思います。

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今回の展示は「大津線(おおつせん)」にまつわるものです。

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では、さっそく見て行きたいと思います。

まずは、展示の主題の「大津線」についてです。
「大津線」とは、「京阪電車の路線」で、「御陵~浜大津間」を結ぶ「京津線(けいしんせん)」と、「びわ湖」の畔、「坂本~石山寺間」を走る「石山坂本線(いしやまさかもとせん)」の「総称」です。

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最初のショーケースにあった「説明文」は、その「石山坂本線」についてのものでした。

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まずは、こちらの「明治39年9月21日付け」の「大津電車鉄道布設(原文ママ)特許出願書」です。

「びわ湖」により古くから繁栄して来た「大津」には、「官営鉄道」(現在の「JR東海道本線」)が明治22年(1889)に開業していましたが、現在の市域には駅数、停車する列車本数とも少なく、「市内交通」としての位置付けのもと、この「大津電車鉄道」なる会社が設立されたようです。
当時はよくあった例ですが、同じようなルートに「路線敷設計画」を持つ資本家などが「競願」するケースが多くあり、その中には「認可された計画をそのまま競合他社に売却する」というようなケースもあったようです(「はなから計画を転売する目的」だったのでしょうか)。

また、「鉄道事業の許認可」は当時、「内務省」の管轄だったのですね(現在は「国土交通省」の所管です)。
そして、「内務大臣 原敬(はら たかし)」の名前が見えます。後の「内閣総理大臣」ですね。

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さて、その「大津電車鉄道布設特許出願書」を申請した後、この「特許状」が「明治40年9月21日付け」で出されています。

記載にありますが、この「大津電車鉄道」の出願の後、「湖西電気鉄道」、「石山軽便鉄道」という会社も同様のルートでの「電気鉄道敷設」の出願をしていたようで、さらに件の「大津電車鉄道」の申請者の一部が、同時期に計画されていた「京津(けいしん)電気軌道」(後日、取り上げます)という、「京都三条~浜大津間」を結ぶ路面電車を運営する会社の発起人にもなっていたそうで、それが参酌されて「大津電車鉄道」に免許が下りたようです。

ただ、当時の「内務省」は、自身が管轄する「官営鉄道に対抗するであろう一般鉄道」には、その「脅威」を感じてか、なかなか免許を与えなかったようですが、この頃普及しはじめた「電気を用いた路面電車の申請」には「軌道条例」というものを設け、「比較的寛大な対応」をしており、それに沿ってか名称も「申請書」にある「鉄道」ではなく「軌道(=路面電車)」での認可がなされたようです(この頃から、この解釈を利用して関西では「都市間を結ぶ鉄道」が「路面電車規格」で多数建設され、現在の「関西大手私鉄」となっています)。


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さて、「会社設立認可」が下り、さっそく「鉄道の敷設」を・・・というところですが、用地買収などの諸事情があり、「第一期線」として「大津~石山寺間」の建設を行う計画を立てた「大津電車軌道」が、「滋賀県知事」に宛ててこの区間の「工事施行」の認可申請を、「明治44(1911)年7月27日」に行ったものがこの「申請書」です。

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さらに、その「大津電車軌道」のルート選定について、用地買収が難航し、本来想定していた計画を変更せざるを得なくなったようで、そんな中、既に「大津」に路線と駅を設けていた「官営鉄道」の「大津港への支線」を活用することを目論み、その「支線の併用利用」を申し出たものがこの「申請書」です。

ただ、「官営鉄道の軌道幅」は「1,035mm」(狭軌=現在の「JR在来線など」の軌道幅)、「大津電車軌道の軌道幅」は「1,435mm」(標準軌=現在の「新幹線」や「大手私鉄」などの軌道幅)と、規格が異なるため、この説明書きにあるように「3線軌道化」する、ということになり、認可が下りました(この「3線軌道」は「昭和40年代前半」まで使用されていました)。

注目されるのは、「利害関係が重なるため」なのか、申請書の宛名は「内閣総理大臣 公爵西園寺公望殿 内務大臣原敬殿」と、何やら大層なことになっています。

「当時の権利関係」には詳しくはないゆえ、「申請先」が「内閣総理大臣」「内務大臣」「滋賀県知事」…などと、結構「バラバラな理由」がはっきりしないのですが・・・
当時の何かしらの「込み入った事情」があったためなのでしょうか。

次回に続きます。
今日はこんなところです。