JR九州 全線完乗への道!その46 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。
「桜島」が一望出来る「城山展望台」で景色を愉しんでいるところです。


しかし、本当にいい景色ですね。いつまでも眺めていたいものです。


ですが、そろそろ戻らねばなりません。残念ながら、下山します。


帰路は楽でした♪


その下山道ですが、往路とは異なる道を行ってみますと「登山道」の終点付近に、この「記念碑」が設けられていました。


「愛知・岐阜・三重」の「三県」にまたがる「濃尾平野」の「治水工事」にあたり、それに従事した「薩摩藩士たち」の「多数の犠牲」を悼む「記念碑」とのこと。
地図を見ていますと、「木曽・揖斐・長良三川」が合流し「伊勢湾に注ぎ込む」ところです。


現在でも「海抜ゼロメートル」の地帯が広がるところもあるので、当時としては大変な工事だったに違いありません。


しばらく進むと、この「石垣」が見えて来ました。
かつて、「島津氏」が居住していた「鶴丸城(つるまるじょう、鹿児島城とも)」の跡だそうです。現在は、「黎明館」という「博物館」が建っています。


その道を挟んだ反対側、現在「鹿児島医療センター」が建っている場所には「戦禍の跡」が残されていました。

「明治新政府の設立」に大きく寄与した「西郷公」が、「征韓論」など「政策の違い」から「政府を辞し、鹿児島へ下野」した後、「士族たちの教育の場」として設置した「私学校」の跡地です。


その「私学校」の士族たちが、「新政府」の「弾薬庫」を襲撃したことに端を発し、明治政府に対して反乱を起こしたのが「西南戦争」(西南の役)です。
最終的に戦火は「鹿児島市街地」にも広がり、この「私学校」周辺でも激しい戦闘が繰り広げられたと言います。

「西南戦争」と、先ほど登った「城山」については
「各駅停車全国歴史散歩47 鹿児島県」
(南日本新聞社編・河出書房新社刊 昭和56年4月初版 絶版)
から拾ってみたいと思います。

西南戦争の激戦地・城山
 鹿児島を語ると、まず西郷南洲翁(※注釈:「西郷隆盛公」の「最敬称」)が登場する。そして西南戦争、城山へと続くのである。市街地のど真ん中に立地し、海抜一○七㍍のシラス丘・城山は国指定の史跡・天然記念物。頂上に南北朝時代に築かれた山城の土塁跡を残し、かつては島津氏の居城・鶴丸城の背後を守った。またクスの古木を中心に植物の宝庫となっているが、西南戦争最後の激戦地とならなかったら、いまほど市民の愛着を集めることはなかっただろう。
 明治一○年(一八七七)二月一五日「政府に問いただしたいことがある」として鹿児島を出発した西郷軍ではあったが、戦局は優位に開けなかった。七カ月にわたって大分、宮崎などを転戦の末、すでに政府軍が入っていた鹿児島に突入し、城山にたてこもって、最後の激戦が展開されたのである。
 城山の頂上の展望台に立つと、いまでは五○万都市に成長した市街の心臓部が一望できる。バックに雄大な桜島と鹿児島湾も。この展望台から岩崎谷におりる道路をくだると、西郷軍が本陣をおいて南洲翁がたてこもった洞窟跡、そして南洲翁終焉の地に行きつく。
 この城山を国鉄(※注釈:現在のJR)鹿児島本線のトンネルが通っている。鹿児島駅側の出口に南洲翁の遺訓「敬天愛人」、西鹿児島側の出口には大久保公の「為政清明」の四文字がそれぞれ刻まれている。
(出典同 P21-22)



「西南戦争」は、先述のように「大分」「宮崎」などの戦いの後、「鹿児島」へ、そして、ここ「城山の戦い」での「西郷隆盛公」の戦死を以って、「終焉」を迎えました。
「石垣」には、「政府軍」が放ったとされる「砲弾の跡」がいまなお、生々しくあちこちに残されています。


先述した「私学校」は、実は「県費」で設置された「公的」なもので、こちらの説明文にもあるように、当時としては「大変先進的な教育」がなされており、「軍事的」にも「かなりの技術を有するもの」だったようです。
それを「新政府」は「脅威」とみなすようになり、「鹿児島」と「中央政府」との対立が激化、「私学校」の生徒たちの不満が鬱積した結果、「西南戦争」へつながったというのが「一般的な見方」とされています。

その「西南戦争」について、先の「各駅停車全国歴史散歩47 鹿児島県」の「前文」に「興味深い記述」を見つけました。
少し長いのですが、よろしければどうぞご覧下さい。

日本を相手に三度戦う
  鹿児島には、日本の時の中央と三度戦った「抵抗の歴史」がある。
  その一は、隼人の乱である。近畿地方に大和朝廷が確立されるころ、南九州には隼人族が住んでおり、特殊な支配を受けていた。都の隼人司という役所に交代で上番し、皇居の警護や相撲、竹細工など特殊な労役に服することになっていた。
  律令国家の権力支配が苛酷になった時、隼人はやむなく抵抗した。養老四年(七二○)、国分平野を中心に起こった隼人の乱は最大規模となり、大隅国守が殺されたため、歌人で知られる大伴旅人(※注釈:おおともの たびと。奈良時代の貴族・歌人。「万葉集」に多くの和歌が選定されている)が鎮定に当たる。文字通りハヤブサのように早く、猛き集団であった隼人族は、圧倒的に多勢の追討軍を迎え撃ち、壮絶な死闘を展開した。
  この乱で討たれた隼人は「斬首捕虜千四百余人」といわれ、その後暴風や火災、地変がしきりに続く。隼人の鎮魂のために建立されたのが、隼人町(※注釈:現在の「鹿児島県霧島市隼人町」)にある県文化財の「隼人塚」だ。
  広大な火山灰台地で、隼人は狩猟や漁労に精出していた。(中略)独特の隼人文化を、隼人はいち早く南九州に築きあげていた。それを中央の朝廷は「まつろわぬ民」(※注釈:「時の為政者に抵抗し、従わない者たち」の意)として圧力をかけ、ついに立たざるを得なかったいきさつが、『続日本紀』(※注釈:しょくにほんぎ。平安時代に編纂された「国史」)に記されている。君よ知るや、隼人の悲しき心を、である。
  その二は、天下統一の豊臣秀吉に対する島津の抵抗である。戦国動乱の中から頭角をあらわし、薩隅日(※注釈:「旧・律令国制度」における「薩摩・大隅・日向」。現在の「鹿児島県」「宮崎県」などに相当)の三州支配を確立した島津氏は、北上して相良一族(※注釈:「肥後国人吉藩」、現在の「熊本県人吉市」付近を支配した一族)と阿蘇氏を降し、肥前の竜造寺氏を攻め、豊後の大友氏と対決し、九州全土を支配しそうな勢いをみせていた。
   同じころ秀吉は畿内(※注釈:現在の「近畿地方」に相当)、中国、四国、北陸を平定。徳川家康を従えて旭日の勢い。九州支配のための分割案を島津に提示するが退けられ、ついに九州遠征となる。天正一五年(一五八七)、島津軍は秀吉の大軍に日向の根白坂(※注釈:現在の「宮崎県児湯郡木城町」付近)で敗れ、島津義久(※注釈:しまづ よしひさ。「島津家」の大名。この戦いの後秀吉に降伏し、「関ヶ原の戦い」や「大坂の陣」以降も影響力を及ぼしたと言われる)は剃髪し和を求めた。
   くだって、天下分け目の関ヶ原の合戦では、西軍の敗戦のなか、島津義弘(※注釈:しまづ よしひろ。先の「島津義久」の弟。「武勇に長けた部将」として知られ「鬼島津」と呼ばれた)は家康の本陣めがけ、中央突破作戦で退路を切り開いた。(中略)
  その三は、最後の大内乱となった明治一○年の西南の役である。徳川幕府を倒し、明治維新に指導的な役割を果たした西郷隆盛は、征韓論(※注釈:明治初期、新政府によってなされた、当時の「李氏朝鮮」への出兵による植民地化を図った政策)でやぶれ下野、帰郷して私学校をつくる。血気にはやる私学校党におされ、「政府にたずねたいことがある」と、上京の途についた。熊本城を囲んだが、田原坂の戦い(※注釈:現在の「熊本市付近」で行われた「西郷軍」と「政府軍」の戦い)に敗れ、最後は城山の露と消えた。
  
  伝記の多い人は、世界でレーニン、ナポレオン、日本では西郷といわれる。西郷を抜きにして、維新の夜明けを語ることはできない。「心の西郷」は人々の心の中に生き続けてきた。これに対する「知の大久保」は、二年前(※注釈:昭和54年)にやっと銅像が鹿児島市に建てられた(※注釈:「大久保利光公」は「西郷公」と同じ「薩摩出身」で「同志」だったが、「明治新政府」において「西郷公」とは「異なる考え」を推し進め、それが結果的に「西郷公の下野」をもたらした、という見方がなされることが多いためか)。その評価と復権の兆しが、地元で見え始めるまでに、こんなにも長い歳月を要した。
   西南戦争が残した傷痕は、あまりも大きかった。あとの一○○年間は、鹿児島にとって精神的にも経済的にも、後遺症のため取り残された虚脱の時代であった、ともいわれる。あの抵抗のエネルギーを、もう一度。八○年代から二一世紀へかけ、「地方の時代」の旗手になり、さて四度目の戦いができるか。
(出典同 P10-11)


先の文章に「四度目の戦い」という件がありましたが、これはこの本が刊行された頃に見られた「地方の停滞」と言われた「現状の打破」と、「大久保公の銅像が近年になってようやく以って建立された」、と言う「大久保公への再評価」が鹿児島でようやくなされ始めて来た、ということの現れでの著述ではないかと捉えられます。
特に後者の事例は、このような書き方をされていることを鑑みると「鹿児島」では「一大事なこと」だったのでしょう。

しかし、時は変われど「改革的」とか「革新的」と言った「知己を生み出す土地柄」があったのではないかということが伺い知れました。
「大和朝廷期の古く」から、実に「深い歴史」と、その背景にある「計り知れない考え」であったり、「卓越した技術」などがあったのだなと、このように少し掘り下げてみると、大変考えさせられるとともに、勉強になりました。

これは「鹿児島」のみならず、「全国各地いずこでも歴史あるところにはそれを裏付けるような理由、事情がある」というのか、そういったことが「少しでも垣間見ることが出来たのかな」と感じたところです。


さて、そこから少し歩くと、この「実に存在感のある建物」の前に出ました。
「鹿児島市役所」です。


「午前中」という時間柄でしょうか、市電が到着する度に人の出入りが見られました。


その「市役所前」電停から再度、「路面電車」に乗車。こちらは空いていました。


「行き」に乗車した電車同様、やはり「全身ラッピング」が施されていて「新車」のように見えたのですが、運転台を覗くと「古参」、という印象を受けました。


それは、この運転台の大きく、いかにも古めかしい「マスターコントローラー」(「マスコン」、「主幹制御器」とも。クルマに例えると「アクセル」に相当)が据え付けられていたからでしょうか。
このタイプは「路面電車」に多くみられる類のものです。

操作の際に「ガチャ、ガチャ」と「大きな音」がするのが特徴なのですが、この音を聴くと「路面電車に乗っているなあ」と感じさせられる代物です。


「市役所前」から約15分、「鹿児島中央駅」に戻って来ました。


「大観覧車」が気になりますね(^^)v


しかし、この「鹿児島市電」、否、「路面電車」のみならず、近年はいずこでも「ラッピング電車」が増えました。

「電鉄会社」としては「広告収入」の目的がいちばんなのでしょうが、観ている側としては「同じ形式」でも「ラッピング」によって「全く別の車両、形式に感じられる」ことも多々あり、興味深いところです。


しばらく「路面電車」の出入りを眺めてから「JR駅」へ向かいます。
その途中に、「同じカラーの自転車」が並んでいるこの光景が目に入りました。


これ、「レンタサイクル」なのですね!
地図によるとその「拠点」は「市内各地」にあるようで、「短距離」であればこれは便利ですね。大阪でもやってほしいです(^O^)

次回に続きます。
今日はこんなところです。