JR九州 全線完乗への道!その36 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。
旅もようやく「鹿児島県」に入りました。


「吉松駅」(鹿児島県姶良郡湧水町)から「観光特急 はやとの風」号、「鹿児島中央駅」ゆきに乗車、「嘉例川(かれいがわ)駅」(鹿児島県霧島市隼人町)に到着したところです。


前回の記事で、この駅舎が「時代を超えた遺産のように思える、いつまでも残っていてほしい」、ということを申し上げました。

現在は「小さな無人駅」なのですが、毎年、訪問した「3月上旬」には普段の「静けさ」とはうってかわって、「年に一度」だけ「賑やかな晴れ舞台」になる、と言います。


それがこの「のぼり」にある、「かれい川 ひなまつり」という、毎年「桃の節句」に行われているという「お祭り」です。


「お祭りのメイン」はこの「ひな人形」の展示だそうです。
駅舎内の「フリースペース」に、堂々(?)と展示されていました。


「周辺住民の方々」からの「寄贈品」なのでしょうか。
ただ、とても「美しいものばかり」です。


わが家にも「ひな人形」はありますが、やはりというか当たり前というか、「人形」によって「役職」が同じでも「表情」は異なるんですね。
このような、「複数のひな人形をじっくり観察する」という機会がないと気づけないことだったでしょう。


また、気になるものを発見。
一番窓際の「ひな壇」の脇に、かつて使用されていたと思しき、「朽ちた木製の駅名板」らしきものが置かれていました。こちらも、個人的には飾ってほしいものです。

その他、展示期間中には「野点」や「琴の演奏」などもあるそうで(それもこの「観光特急 はやとの風」号の到着に合わせた時刻に行われるようです。これは嬉しいですね)、「小さな古びた駅」が「1年で1回だけ『主役』へと変貌する『晴れの日』」になります。


「ひな人形」と「時代を超越したような駅舎」、とても印象に残る経験が出来ました。
更にこの日は「3月3日」。良い想い出をありがとうございました。

「八代駅」(熊本県八代市)から「急峻な山岳地」をようやく抜け、「肥薩(ひさつ)線」の終着駅、「隼人(はやと)駅」(鹿児島県霧島市隼人町)に到着しました。

いや、「実に長い道のり」でしたが、この「肥薩線」はさまざま取り上げましたように「歴史に由来する見所」がたくさんあり、「また乗車する機会があれば是非に乗りたい、と言う価値のある路線ではないか」と強く感じました。



「はやとの風」号からはここで下車。


前回の記事でも触れたのですが、この列車は「鹿児島中央駅」ゆきなので、このまま乗車していますと「1時間ほど」で、また日のあるうちに「鹿児島市内」へ入れるのですがここで下車することにしています。

というのは・・・


こちらは、愛用している「JR私鉄全線 乗りつぶし地図帳」(JTBパブリッシング社 2013年刊)から、この「隼人駅」周辺の地図を拾ったものです。

実は、この時点で、先ほど「はやとの風」号に乗車した「吉松駅」(鹿児島県姶良郡湧水町)から分岐する「吉都(きっと)線(愛称、えびの高原線)」が「未乗区間」なので、一度、ここ「隼人駅」で下車、「吉松駅」まで戻り、「吉都線」に乗車することにしているためです。



ここでも「折り返しの待ち時間」があるので、改札を出ます。
のれんの「○十」の「島津家の紋章」を見るにつけ、やはりここは「鹿児島県」だということを印象付けられます。


「駅舎」です。「駅名板」にもある「紋章」が特徴的ですね。


雨の中ですが、ここで少し小降りになってくれました。
「駅前散策(といっても、ロータリー内くらいですが)」が出来そうです。

さて、この「隼人駅の所在地」の「霧島市」は、2005(平成17)年11月に周辺の市町が合併して誕生したまだ「新しい市」だそうです。
また、従来の「1市・6町」を合併したものなので、かなりの「広大な面積」になるようで「案内」では「霧島市隼人町」などと言うように「合併前」の「旧・市名、町名」が併用して用いられることが多いようです。

では、この「隼人駅」について、毎度おなじみの、
「各駅停車全国歴史散歩47 鹿児島県」
(南日本新聞社編 河出書房新社著 昭和56年初版 絶版)
から拾ってみたいと思います。

鈴懸け馬や古代遺跡群 隼人
”鹿児島本線”として開通
 隼人駅は鹿児島県内の鉄道の”さきがけ”といえる。明治三四年、鹿児島ー隼人間に県内で初めての鉄道が開通したが、隼人はその終着駅だった。当時は「隼人駅」の呼称ではなく、「国分駅」として開業、昭和四年まで三○年近く同駅名が続いた。昭和五年西国分駅、さらに翌五年、正式に隼人駅の名称となった。明治三六年には吉松まで”鹿児島本線”(今の肥薩線)が開通したが、日豊本線はずっと遅れて昭和七年である。
 それだけに、隼人駅は県北と宮崎方面へ通じる分岐点にあって、鉄道の中心地でもあった。今でこそ、鉄道は交通の基幹から遠ざかっているとはいえ利用者は沿線の中で多い方だ。五四年で一日乗降客数は一五九八人。うち六割が定期乗降客だ(※注釈:昭和55年現在)。

鈴懸け馬がマンボ踊り
  隼人町(※注釈:当時。現在は「霧島市隼人町」)は神代の昔、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)が都とした高千穂宮の所在地として伝えられており、それにまつわるいろいろな遺跡が多い。さらに上古時代、南九州で勢力を振るって”中央”を悩ました熊襲族(※注釈:「くまそぞく」。「日本神話」にたびたび登場する、九州南部に本拠を構えヤマト王権に抵抗したとされる人々)の菩提をとむらった隼人塚など枚挙にいとまがない。
 彦火火見尊と豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)を主祭神とした鹿児島神宮が、隼人駅から西北に一㌔離れた森の中にある。現在の社は今から二三○年前の宝暦六(1756)年に造営されたもので、社殿の勇壮さと彫刻彩色の華麗さは九州屈指のものといわれる。本殿の壁画は木村探元(※注釈:「きむら たんげん」。狩野深信の門人で薩摩藩お抱えの画家)の筆になるものとされ、貴重な文化財の一つである。
 例年旧暦の正月一八日。神宮境内は初午祭でにぎわう。金造りの鞍に五色の布を下げ、首や体躯いっぱいに鈴をつけ、きれいに着飾った馬が「さても見事な八幡馬場よ、鳥居にゃ鳩が巣をかける」と、太鼓、三味線、手拍子に合わせて身体を左右に振り、首で調子を取りながら器用な脚さばきでマンボ踊りをするのが初午祭のハイライト、鈴懸け馬踊り。当日は県内外から参拝客が殺到する。この鈴懸け馬に飾る豆太鼓はポンパチと呼ばれ、郷土玩具になっている。
(出典同 P86)

どうやら、普段は静かなたたずまいの「鹿児島神宮」も、「マンボ踊り」という、「神事」には似つかない(?)表現がなされているように、かなり賑やかなもののようですね。こういう記述を見ますと、一度、実際に観てみたいものです。


さて、この「隼人駅」駅前の「案内図」を見ていますと、先ほど通過してきた「嘉例川駅」の文字が見えました。
が、なんとその近くに「鹿児島空港」の文字が…

あの「ひなびた嘉例川駅」の近くに「空港」があったとは、これまた「ものすごいギャップ」いうのか、ちょっとビックリです。

実は、この「鹿児島空港」も、所在地は「鹿児島県霧島市」なのですが、「霧島市発足」以前は「姶良郡溝辺(みぞべ)町」という町でした。
「鉄道駅」は存在していないのですが、「九州自動車道」の「溝辺インターチェンジ」があるなど、「繁華なところ」のようです。

では、この「溝辺町」についても先の「各駅停車全国歴史散歩」から拾ってみたいと思います。

空と陸の交通の要 溝部
全国一のローカル空港
 姶良郡溝辺町(※注釈:現在の「鹿児島県霧島市」。2005年11月、「国分市」と「姶良郡溝辺町・横川町・牧園町・霧島町・隼人町・福山町」が合併して誕生。「県内第2の人口規模」を誇る)が今日あるのは、ひとえに鹿児島空港のたまものである。町内には神武天皇のおじいさん、天津日高彦火火出見尊(アマツヒダカヒコ ホホデミノミコト)の眠る高屋山上陵(たかやのやまのえのみささぎ)と、「極楽」「平和」「祝儀園」などめでたい地名がいっぱいついた”仏の里”がある。有馬四郎町長(※注釈:当時)ら町幹部は、県内、県外から視察団が訪れるたびに、「わが町は神様、仏様、ヒコーキ様の同居するありがたい町です」とPR、空港設置に感謝、感激の毎日である。
 その鹿児島空港。五五年の国内線の乗降客は四一二万一六○○人を数え、羽田、大阪(※注釈:「伊丹空港」)、福岡、札幌、那覇に次いで全国六位の空港にのし上がった(※注釈:昭和55年現在)。五位の那覇までが日本航空が国内営業できる幹線空港で、鹿児島空港は幹線以外のローカル(地方)空港としては名古屋空港(※注釈:現在の「名古屋飛行場」)を抜き、だんぜん日本一。ために鹿児島県内の各界からは「鹿児島空港を幹線空港に昇格すべき」との強い声も聞こえる。

名実ともに南の玄関口に
 鹿児島空港は日本の南の玄関口に当たる。四七年の開港当初から九州では福岡空港に次いでCIQ(税関、入管、検疫)施設を完備、国際空港としての機能もバッチリ。現在日航とナウル航空(※注釈:「ナウル共和国」に存在する現在の「アワー航空」。当時、日本やグアムなどをはじめとする「太平洋への路線」、またオーストラリア、ニュージーランドなどの「近隣国への路線」を運航していた。2005年12月に経営破綻し、現在は中華民国(台湾)の援助を受けて会社を再建中)が乗り入れており、日航は鹿児島から香港、シンガポール便を飛ばし、四月(※注釈:昭和55年4月)からはさらにバンコクへ路線を延ばす。ナウル航空はグアム、ポナぺ、ナウルと結んでいる。
 国際線の乗降客は昨年(※注釈:昭和五四年)の不況で五五年は四万四六○○人と横ばい状態。しかし、運輸省(※注釈:現在の「国土交通省」)と鹿児島県は将来、鹿児島空港の南の玄関口としての役割は必ず重視されるとみて、昨年は二五○○㍍の滑走路を三○○○㍍に延長、五六年度は総額九億六○○○万円かけて空港ビル北側に本格的な国際線ターミナルを建築する。(後略)

企業進出と人口増と
 五一年には九州自動車道の溝辺インターチェンジが開設され、鹿児島市の終点まで車で二五分で結ぶ。溝辺町は文字通り空と陸の要衝になった。地図を開いていただければおわかりだが、薩摩半島と大隅半島を人間の両足にたとえると、同町はちょうどヘソの部分にあたり、県内はじめ宮崎、熊本に行くにも最少の輸送コストでいい位置にある。燃料高騰のおり、企業群がこの利点に目をつけないはずがない。
(中略)

神と仏のふるさと?
 溝部といえば、神代第二代天津日高彦火火出見尊(アマツヒダカヒコ ホホデミノミコト)の御陵(みささぎ)、高屋山上御陵(たかやのやまのうえのみささぎ)で有名。
皇祖天照大神の曾孫で、神武天皇のおじいさんに当たる。宮内庁管轄で「書陵部桃山監区高屋部担当総理府事務官陵墓守部」という、いかめしい名の”墓守”さんが番に立っている。御陵への参拝は全国各地から、年間を通じ絶えたことはない。
 高屋山上陵から約二㌔北に走ると、こんどは”仏の里”に着く。ここは大字は竹子地区だが集落名に「極楽」「平和」「祝儀園」「聖の宮」「協和」「新香」など西方極楽を思わす名がいっぱい。一度、この世の”極楽”に出かけてみてはいかが?
(出典同 P84-85)

なるほど…この周辺が「日本神話」にも登場する土地柄であるのは「熊本県内」でも聞いた話ですが、「仏様」にもご縁があったとは。なんともありがたいところですね。


また、その横にはこんな看板もありました
「日本最初の新婚旅行 龍馬ハネムーンロード」とありますね。
 
「坂本龍馬」は、いまさらながら「幕末期の英雄」として有名であることは言うまでもないことでしょうが、「新婚旅行」もこの人が「最初」だったのですね。
あの有名な「寺田屋事件」(1866年1月)で負傷した龍馬の「療養」を兼ねたものだったのですね。

「歴史的事件」の裏にこのようなことを考え付いたのは「さすが」というか「ただでは起きない」というか・・・発想が「イメージ通り」、とても「革新的」ですね。
 
「寺田屋事件」と「日本最初の新婚旅行」についてはこちらもどうぞ。
いずれも当ブログです↓

伏見に行くぜよ その4(2010年7月10日アップ)

伏見へ行くぜよ その5(2010年7月10日アップ)

京阪電車開業100周年記念 「ひらかた大菊人形 龍馬伝」訪問記 その5
(2010年11月27日アップ)

京阪電車開業100周年記念 「ひらかた大菊人形 龍馬伝」訪問記 その6
(2010年12月4日アップ)
 
さて、その「新婚旅行」の相手は「楢崎 龍(ならさき りょう、りゅう)」という人物でした。「Wikipedia」から拾って参りたいと思います。

 京都の医師の長女で、父が死に一家は困窮していた。龍馬はお龍を元治元年(1864年)頃に見初め、同年8月頃に祝言を挙げた。龍馬はお龍の境遇と妹二人を人買いから取り返した武勇談を家族宛ての手紙に詳しく書き送り、彼女を「まことにおもしろき女」と評している。各地を奔走していた龍馬は、お龍を懇意にしていた伏見寺田屋のお登勢に預けた。
 慶応2年(1866年)1月23日の寺田屋遭難の際に、お龍の機転により危機を逃れた話は有名で、龍馬は姉・乙女宛ての手紙で「このお龍がいたからこそ、龍馬の命は助かりました」と述べている。寺田屋遭難後の同年3月から6月、龍馬はお龍を伴って薩摩へ下り、療養のために各地の温泉を巡った。龍馬は日本最初の新婚旅行といわれるこの旅行の様子を詳細に姉・乙女に報告している。
 その後、お龍は海援隊の拠点がある長崎、下関で過ごし、慶応3年(1867年)12月に龍馬の訃報に接した。お龍は龍馬の未亡人として土佐の坂本家に入ったが、義兄夫婦と反りが合わずに3ヵ月ほどで土佐を出ている。京都、東京、神奈川と縁者を頼って居を移し、明治8(1875年)、35歳のときに大道商人・西村松兵衛と再婚した。      
 明治の中頃以降に龍馬が世間の注目を集めるようになると取材に応じて龍馬についての回顧談を残した。明治39(1906)年に66歳で死去。
 
ということで、「龍馬」とはかなりウマが合うような、度胸のある「好人物」だったようですね。
 

さて、改札口に戻って来ました。

 
「隼人駅」は「日豊(にっぽう)本線」と「肥薩線」との乗換駅です。
先ほど触れたように、「日豊本線」には乗車せず、再度「肥薩線」を戻ることにしています。


次に乗車するのは「16時12分発」の「普通列車 都城ゆき」です。


「都城ゆき」は、既にホームでアイドリング音を立てて発車待ちをしていました。
やはり、例によって「キハ47形ディーゼルカー」です。


車両側面の「行先表示板」(通称:サボ、サイドボード)です。
何やら「矢印」が記してありますが…

この「都城ゆき」はその「矢印」のように、「国分駅」から「隼人駅」へ、そして「肥薩線」に入り「吉松駅」を経由して「吉都線」で「都城駅」に向かう列車です。
一見するとややこしいようにも見えますが、「ルール」と言うか、「見方」が分かればわかりやすいですね。

と言いますか、ここ「隼人駅」から「都城駅」(宮崎県都城市)へ、「未乗区間」である「吉都線」を経由して大回りして運行してくれるので、「乗り継ぎ」も考慮しなくてもよいという、なんとも「わたしにとっては都合のいい列車」です(^^)v



雨の「隼人駅」を出発しました。

次回に続きます。
今日はこんなところです。