みなさんこんにちは。前回からの続きです。
「肥薩(ひさつ)線」もいよいよ終盤、その手前の「吉松(よしまつ)駅」(鹿児島県姶良郡湧水町)に到着しました。
まさに「観光案内列車」といった趣の「いさぶろう」号から、さらに乗り継ぎ。
ここでも少々待ち合わせ時間がありますので、ここでも駅前を散策してみます。

「吉松駅」駅舎です。
「肥薩線」と、この後乗車する予定の「吉都(きっと)線」は「開業100周年」なのですね。おめでとうございます。

改札を出て左へ、少し進んだところに「鉄道記念館」がありました。

「吉松駅」は、先日の記事でも触れましたが、「鹿児島線」(現在の「鹿児島本線」と「肥薩おれんじ鉄道」の一部)の開業までは、「熊本以南」への「唯一のメインルート」だった時期が長く続きました。
その中で、「交通の要衝」として「重要な地位」にあったことが、説明から伺い知れます。

ここまで通過してきた「急峻な山間部に敷設された、『スイッチバック』や『ループ線』などが連続する、単線の鉄路」を想起すると、かつて「大幹線」であったことということは、現在では想像しがたいことですね。


ただ、「旧・国鉄」の「分割民営化」(昭和62年4月)以降の「JR化」は、「霧島高原鉄道事業部」が設けられ、「地域輸送」、そして近年では「観光輸送」という「二つの面」が顕著になったようです。

「終戦直前」に発生したという「列車事故」。
この事故は、終戦直後の「昭和20年8月22日」に発生したもので、「鹿屋飛行隊」の解散とともに、「いち早く帰郷したい」という多くの兵士たちを載せ、「定員オーバー」で運行していた列車が、トンネル内で立ち往生し、多くの乗客が煙に巻かれて逃げまどう中、急勾配を逆送し始めた列車に乗客が轢かれ、多数が命を落とした、というものです。
「終戦」を迎え、「命」が助かったのにも関わらず、このような事故で「命を落とす」…
ほんとうに悲しいことですし、現代を生きるわれわれにとっても、さまざま考えさせられることだと思います。

先ほど通って来た「人吉~吉松」間の「詳細な路線図」がありました。
「大畑駅」での「スイッチバック」と「ループ線」、「真幸駅」での「スイッチバック」と、「山岳部」を通過するのに相当な苦労があることが伺い知れます。

先ほど触れました、「JR化」後にこの近辺を管轄していた「霧島高原鉄道事業部」の看板です。「平成4(1992)年6月」の開設だそうです。

こちらは、「単線区間」で使用される「閉塞器」というものです。

「閉塞区間」いうのは、「単線区間」で「上下列車が互いに通過する際、正面衝突などの事故を防ぐために、その区間専用の『通行手形』を持っていないと「決められた単線区間」に入線出来ない、というものです。
例えば、「A駅」と「B駅」が「単線」で、「閉塞区間」となっている場合、この区間を通過する場合には「A駅⇔B駅専用」の「通行手形」を持っている列車しか通行できないというシステム、と言えばわかりやすいでしょうか。

この「閉塞器」の中に「タブレット」という、「真鍮製」の「丸型の玉」がセットされており、「所定の連絡操作」を経ることにより「A駅」に設置されているこの「閉塞器」から駅員が「タブレット」を取り出し、「閉塞区間を通過する列車の乗務員」に手渡し、「B駅」に到着した際に、今度は「B駅」の駅員へ、さらに「B駅」から「A駅」へと向かう「列車の乗務員」に手渡す、ということが行われていました。
「列車運行における保安方法」としてはかなり「分かりやすく簡単な理論」なのですが、現在ではほとんど使用されていないシステムです。

その他にも、こちらは「転轍機」(ポイント)の一部や・・・

こちらは「筆文字」の「琺瑯製駅名板」ですね。


こちらは、「肥薩線」や「吉都線」で使用されていた「運転士時刻表」(スタフ)です。

一番目についたのはやはりこれでしょうか。
「砲金製」の「蒸気機関車ナンバープレート」。「D51(デゴイチ)」のものですね。
いや、思わぬところで良いものを見られることが出来ました。
ありがとうございました。

その他にも、駅舎近くにはこの「煉瓦積み倉庫」や・・・

「蒸気機関車」が「静態展示」されていました。
ちょっと時間が押しているので見に行けないのが残念ですが・・・

さらに「肥薩線」を南下して行きます。
次回に続きます。
今日はこんなところです。