少し遅れて「野崎まいり」 前編 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。

「少しばかり間の空いた更新」をさせて頂いているところですが、幸いなことに記事更新のいとまが出来ましたので、気分転換に「この季節ならでは」の「緑豊かな土地」を散策した際の様子をお届けしたいと思います。

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さて、「京橋駅(大阪市都島区)」から「木津駅(京都府木津川市)」へ向かう「JR学研都市線」という路線に乗り込みます。
この「学研都市線」は、わたしの住む「中河内地域」を通る路線で、幼少からなじみのある路線でもあります。

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朝のラッシュ時間は過ぎた頃なのですが、若い人が大勢下車して行きます。

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やって来たのは「野崎駅」(大阪府大東市)。
「大阪の東の玄関口」、「京橋駅」(大阪市都島区)からは「およそ15分ほど」で、交通の便はすこぶる良いところです。

駅前は見た感じは「住宅地が広がるところ」なのですが、この「大勢の若い人」が向かう先には…

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駅構内の案内地図です。

地図中央の左端が「野崎駅」、そして下車した若者が向かうのは右上の「大阪産業大学」です。
時刻は「朝の9時過ぎ」、「大学の1限目あたり」にはちょうど良い時間帯なのでしょうね。
この「大阪産業大学」(地元では「産大」と言われています)、その学舎の同じ敷地内には系列校の「大阪桐蔭高校」があります。
最近は「プロ野球選手」を多く輩出していることでも知られていますね。

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この「野崎駅」から、今日の「目的地」へと向かうことにします。
今年の「大型連休」は、大阪では天候がはっきりしない日が続いたのですが、この日はご覧の通り、きれいに晴れ渡っています。
適度にさわやかな風もあり、散策には気持ちの良い「新緑の季節」になったことを肌で実感します。

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駅前の「谷田川」を渡ります。

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そこから少し進むと、この「舟」の形の「観光案内」がありました。

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さて、先ほどの「舟」ですが、これは「屋形舟」というものに区分されるもので、この「野崎」の山あいにある「野崎観音」へ向かうものを模したものです。

今日の散策の「目的地」はこの「野崎観音(のざきかんのん)」という「名所」です。
江戸期から、「庶民から篤い信仰」があり、この周辺、すなわち現在の「大東市」を含む「北河内地域随一」の「観光名所」になっています。
江戸時代、「大坂」から「野崎観音参詣」をする人々は、大阪の「七軒家浜(しちけんやはま)」(現在の「大阪市中央区天満橋」付近)からこの「屋形舟」に乗船し、「寝屋川(ねやがわ)」と言う川を東へ向かっていたそうです。

「こいのぼり」が泳ぐこの川が「寝屋川」で、先日の記事でもご紹介しました。
この「寝屋川」を、かつては「屋形船」が行き来していたそうです。
その際の記事↓
当ブログ
「こどもの日」点描(2015年5月5日アップ)

この「野崎観音」への参詣は、昔から「野崎まいり」と言われ、江戸時代から「庶民の大きな楽しみ」だったようです。
現在でも、毎年5月上旬に「野崎まいり」の催しが行われ、駅前から参道には露店や出店がたくさん並び、大変な賑わいを見せます。

実は、毎年賑わいのあるこの「野崎まいり」の時期に行きたかったのですが、諸般の事情で行くことが出来ずで、このように「参詣の時期が終わった直後に詣でた」、というところです。
なので、記事の題目は「少し遅れて野崎まいり」です(>_<)

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さて、こちらはその「参道」で見つけた「マンホール」です。
「屋形舟」に乗船している人が、川沿いを歩く人となにやら「やりとりしている」ようですが…

これは、「上方落語」の「野崎詣り」と言う演目でも有名だそうですが、「野崎まいり」に向かう「屋形舟の乗客」と「川沿いに徒歩で参る人」との「やりとり」が当時、いわば「名物化」していたようです。

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その「やりとり」の内容は「現代語」で言うと概ねこんな感じだったようです。

(屋形舟の乗客)「わしらは船に乗っているから楽でいいわ、うらやましいやろー」
(徒歩の人)「うるさいわー!歩いて行くからご利益があるんじゃー」
(屋形舟の乗客)「やせ我慢してるなーお前は!」
(徒歩の人)「放っとけー!」 

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というようなやりとりがあったようです。

さらに、その「やりとり」(と言うか、どちらかというと「なじりあい」だったそうですが…)で「勝った者」は、「その年良いことがある」と言われていたそうです。
その様子は、歌手の「東海林太郎」(「直立不動で唄う方」ですね)が昭和8(1933)年に発表した「野崎小唄」と言う曲にも唄われています。

 「野崎小唄」
 作詞 今中 楓渓(いまなか ふうけい)
 作曲 大村 能章(おおむら のうしょう)
 歌   東海林 太郎

♪野崎詣りは 屋形舟でまいろ
  どこを向いても 菜の花盛り
  粋な日傘にゃ 蝶々もとまる
  呼んでみようか 土手の人…
 
しかし「♪呼んでみようか」とありますが…
先ほど触れた「なじりあい」とは、だいぶ表現が違いますね(^^ゞ

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その様子については、当ブログ「JR九州 全線完乗への道!」シリーズでもお世話になっている、
「各駅停車全国歴史散歩26 大阪府」
(大谷 晃一著 河出書房新書編 昭和55年1月初版刊行 絶版)
の「野崎駅」の記事から引用させて頂きます。

野崎まいり
  片町線(※注釈:現在のJR学研都市線)は、昭和四四年大阪片町(※注釈:現在は廃止)から四条畷(※注釈:大東市の北隣、現在の四條畷市)まで複線化され、野崎や四条畷駅付近は、急速に住宅化が進んだ。
大東市の中心の住道駅周辺は、工業地帯となっている。

 ~野崎まいりは屋形船でまいろ
  どこを向いても菜の花ざかり

 昭和のはじめ、東海林太郎が歌って大ヒットした野崎小唄。一面の菜の花畑は、すっかり住宅や工場へ変わり、歌に歌われたかつての水郷地帯ののどかな情景を探すのはむずかしい。
 その野崎まいりで知られる野崎観音の無縁経法要は、毎年五月一日から一〇日に行われ参詣客で賑わう。特に江戸時代には、この野崎まいりは大坂人の間で大流行した。寝屋川の舟運も盛んで、舟に乗った人と堤防を行く人と互いに悪口を言いあいながら、野崎観音へお参りをする風習があった。悪口を吐くことで諸悪が追放されるともいわれ、長い道中の退屈しのぎにもなった。
(出典同 P208)

この時代、「屋形船に乗船している人」と言うと、「身分の高い人」や「お金持ち」が多かったはずです。
ということは、「徒歩で参詣する人」は「庶民が多かったこと」が推測されるので、この「やりとり(正確には『悪口の言い合い』?)」は「お祭りの時だけの無礼講」だったようですね。

「身分制度」が厳格であった「江戸幕藩体制」の中においても、こういった例は全国でも多々あったようです。
さまざまな縛りの中で、窮屈に生活していた「庶民」には「絶好の憂さ晴らし」だったに違いないですね(^^)v

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さて、この「屋形船型案内板」には、この「野崎駅」から「野崎観音」、そして「四條畷市」に入って「四條畷神社」や「飯盛山」などへの「ハイキングコース」の案内もありました。

「四條畷神社」は「楠木正成(くすのきまさしげ)」を主神とする神社で、「戦前、戦中の国策」により「参拝者が引きも切らなかった」そうですが、現在ではひっそりとしたたたずまいになっています(こちらは、また機会を見つけて取り上げたいと思います)。

また、この「四條畷」や「野崎」から「大阪市内」へと走る「JR学研都市線」も、もともとはこの「四條畷神社」への「参拝客輸送」を目的にして建設された路線だと言います。現在では想像もつきません(全国にも同様の理由で建設された路線があちらこちらあります)。

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さて、前置きが長くなりましたがその「野崎観音」へ向かいたいと思います。

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こちらは「駅前商店街」兼「野崎参道」です。

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この山を中腹まで上ったところに「野崎観音」があります。緑が鮮やかですね。

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商店街の途中にはこのような「記念の石碑」や…

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これは、いかにも「大阪らしい」というか…「リサイクルショップ」でしょうか。

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およそ300mほどでしょうか、商店街を抜けると「国道170号(通称『東高野街道』)」=(かつての「京から高野山への参詣道」に相当)と交差する「野崎交差点」に出ます。

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ここからは、先ほどの賑やかな商店街とはうって変って、緩い坂道が続く「静かな脇道」に入ります。

次回に続きます。
今日はこんなところです。