京阪特急・ノンストップ時代の旅 その4 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんばんは。
時節は4月、新年度に入りました。
いろいろなことが身辺でも変わって行って、ちょっと戸惑い気味な気分です!(^^)!
平成26年度もよろしくお願い致します。
 
さて、前回からの続きです。
京阪電車樟葉駅前に増床オープンした「くずはモール」南館にある、旧・3000系特急車をメインとした「SANZEN-HIROBA」の模様をお送りしています。
 
懐かしの「テレビカー」を降りて、館内の展示などを観ているところです。
歴代のポスター展示コーナーにやって来ました。
なかなか、時代の流れを感じさせる興味深い展示でしたので、わたしなりにちょっと解説を入れながら、ご紹介したいと思います。
 
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まずはこちら。
昭和62(1987)年5月の「京都地下線開業(東福寺~三条間)」の完成を受けての、同年6月のダイヤ改正の告知です。
「急行8両運転を開始」とありますが、京都地下線の開業で、京阪線全線で急行の8両運転が可能になったのが当時のダイヤ改正の大きなポイントでした。
 
何故か、当時最新鋭車両だった6000系ではなくて、5000系がメインです。
左の下り急行は行先方向幕なしの看板付き、右の上り急行は行先表示器付きと、
同じ形式でも違いを見つけることが出来ますね。
 
イメージ 2
 
ちょっと時代が前後しますが…
こちらも「急行に8両編成を投入」とあります。
ただし、運転区間は「淀屋橋~樟葉間」で、「朝夕のラッシュ時に限定」とあります。
 
このポスターは昭和60(1985)年のダイヤ改正のもので、先ほどの京都地下線開業の2年前のものです。
京都地下線の開業前(すなわち地上線時代)の七条~三条駅間は、最大でも7両の編成しか入線出来なかったので、地下化に先駆けて大阪方のこの区間の急行が8両化されたというわけです。
 
ちなみに、この際に8両化されたのは最新鋭の6000系ではなく、昭和39(1964)年に製造が開始された2200系車両です。
 
6000系がこの際に8両化されなかったのは、「最新型車両の6000系を8両にすると、最大7両しか運用出来ない京都方に入れず、京都方面の乗客に6000系に乗車してもらえる機会が減ってしまうから」だと言われています。
なるほど、当時なりの気遣いだったわけですね。
 
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また時代は前後しますが…
件の「6000系車両」がデビューした、昭和58(1983)年のポスターです。
同年12月に、大手私鉄最後の昇圧(架線電圧を600ボルトから1500ボルトに変更する)のに合わせて、昇圧に対応出来ない旧型車両を置き換えるために新造された車両です。
 
実際は、昇圧前の同年3月から4両編成として登場し、主に宇治線・交野線で活躍していました。
登場当時は、従来の京阪電車のイメージを覆すインパクトで、「塗装のみが京阪電車を物語っている」と言われたとか言われなかったりとかだそうです。
当時幼少だったわたしも、この車両を初めて見た時にはかなり衝撃を受けたのを覚えています。
 
ちなみに、この6000系のデビューが「昭和58年3月17日」。
「3月17日」はわたしの誕生日です!(^^)!
なので、そういった経過もあるので京阪電車の中で、わたしが一番好きな車両はこの「6000系」です。
 
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またまた時代は繰り下がります…
「新しい技術がいっぱい 5扉車登場 5000系」とありますね。
昭和45(1970)年、日本初の5扉車「5000系」登場の告知です。
 
昼間・閑散時には第2・第4扉を閉鎖しその部分に天井から座席が降りて来て「3扉車」として運用され、朝ラッシュ時にはその部分の扉を収納して「5扉車」として運用出来るようになっています。
 
いわば、現在、首都圏でよく見られる「多扉車」の先駆けなのかも知れませんね。
 
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こんどは「1000系車両」の車体更新完了のポスターです。
平成5(1993)年でしょうか。
 
この「1000系」車両はなかなか興味深い変遷がありまして、もともとは昭和初期の
世界的な流線型ブームに乗って登場した「旧・1000系」の車両機器を流用し、車体を新造して昭和42(1967)年に登場した「700系」の車体をさらに流用し、改修の上で新造された車両です。
 
車籍上は「昭和52~53年新造」とされていますが、ベースは「700系」のままなので、
車体改修後の現在でも「700系」当時の面影を垣間見ることが出来ます。
 
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今度は、京都から大津・琵琶湖を結ぶ「大津線」です。
大津線初の冷房車「600系」登場のものです。
昭和59(1984)年頃でしょうか。
 
現在は、京都市地下鉄と直通運転している「大津線」の中に分類される「京津線」ですが、平成9(1997)年までは、この「600系」も、路面電車として京都の三条駅まで乗り入れをしていました。
学生の頃良く乗りました。
 
現在は、大津の坂本と石山寺を結ぶ「石山坂本線」での運用が中心となっています。
 
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今度はまた「京阪線」に戻ります。
枚方市駅付近の連続立体高架工事の様子ですね。
昭和60(1985)から61(1986)年頃のものでしょうか。
 
枚方市駅付近の踏切道、特に駅の大阪方にあった府道踏切道は交通量も多いため混雑が著しく、早期の高架化が望まれていました。
「完成は61年度末の予定」とありますが、実際には京都方面の高架完成は1988(昭和63)年、大阪方面の高架完成は1990(平成2)年、枚方市駅から分岐する交野線の仮高架化の完成は1993(平成5)年までかかりました。
 
蛇足ですが、このポスターの背景に、現在はともに閉店した「近鉄百貨店」と「三越」が見えます。
枚方在住だった祖母は、「枚方市までへ買い物に行く」ことをいつも「東口に行く」と言っていました。
当時の「枚方駅」が「枚方公園駅」に、「枚方東口駅」が「枚方市駅」に改称されたのが昭和24(1949)年のこと。
 
「東口」こと「枚方市」は、当時も今もなんでも揃うところだったのでしょうね。
 
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さて、こちらは「交野線仮高架化」のポスターです。
先ほど少し述べましたが、平成5(1993)年頃のものと思われます。
この際には、交野線の高架ホームを仮設するという大掛かりなものでした。
 
この時には既に、京阪本線の上下線ともに高架化は完成しており、混雑のひどかった府道踏切道を含む5箇所の踏切道の車両通過は、交野線の回送車両が通過する一日数本のみとなっていましたが、交野線の仮ホームから京阪本線の大阪方面への連絡線の仮設で、これらの踏切は完全に除去されました。
 
結局、高架化の工事は付帯工事も含めると、工事開始から20年近くの歳月がかかってしまったようです。
 
しかし、今回も、懐かしい思い出に浸ってしまいました(+_+)特に祖母との思い出が…
 
次回に続きます。
今日はこんなところです。