阪和電気鉄道 昭和初期の面影〜その5「東岸和田駅」 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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またまた昨日からの続きです。
今日は阪和線開業当時の、昭和初期の面影を残す建築物の紹介です。
 
まずは、阪和線の概略からです。
またまたwikiの力を借ります(←手抜き)
阪和線
 
阪和電気鉄道(阪和線の前身)
 
もともと、大阪から和歌山へは南海鉄道(現在の南海電鉄本線)が1885(明治18)年、日本最古の私鉄
として、南海の前身、阪堺鉄道が大阪の難波と大和川間を開業して以来、徐々に南へ路線を伸ばし、
1903(明治36)年に和歌山まで達しました。
 
大阪湾側の古くからの集落を結ぶ南海線に対し、一方で京阪電鉄などが出資した「阪和電気鉄道」が
人口の少ない山側に、高速運転が可能な、当時としては破格な高規格の新路線の建設を画策します。
1929(昭和4)年に完成したのが、私鉄の阪和電気鉄道(現在のJR阪和線)というわけです。
 
詳しくはwikiの記事を参照頂きたいのですが(←手抜き)、もともと直通利用客の少なかった大阪と和歌山
の利用客を奪いあうことになり、経営が悪化した阪和電気鉄道は1940(昭和15)年、ライバルの南海鉄道
に吸収合併され、「南海山手線」となりました。
 
それからわずか4年後の1944(昭和19)年、今度は戦時中の政府の方針で「南海山手線」は国鉄に買収
され、「国鉄阪和線」となり、JR化を経て現在に至っています。
 
そういうわけで、この路線はもともと「私鉄」として建設された路線なので、他のJR線とは異なる特徴が多々
見られます。
 
先日、ご紹介した「紀伊中ノ島駅」のような独特な駅建築物などの他に、今日の話題の「架線柱」について
もでそうではないかと思います。
 
「架線柱」とは、読んで字のごとく「架線を支える柱」なのですが、旧・国鉄からの全国共通のそれではなく
阪和線では「実に独特な」ものが存在しています。
 
紀伊中ノ島駅から、天王寺(大阪方面)に戻ります。
 
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阪和線の中間から少し大阪よりの「東岸和田駅」です。
ちょうど、ブルー色の普通電車(和歌山方面ゆき)が停車しています。
 
その電車の上の、少しピンクがかった無骨な柱が今日の話題です。
 
先日の天王寺駅の話題でも紹介しましたが、これもレトロな感じの建築物です。
 
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この駅の4つの線路をまたいでいる架線柱を、上から3枚に分けて撮影しています。
 
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少し近寄ってみます。
 
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下からのぞいてみました。
ピンク色のペンキが微妙に薄くなっていて、何とも言えない味があります。
この柱も、開業当時からの建築物だそうです。
 
東岸和田駅では現在、線路の高架工事が実施されており、近い将来、この架線柱も見られなく
なりそうです。
といいますか、沿線に結構林立していたこの開業当時からの架線柱、近年新しいものに取り換
えられつつあり、数が減っています。
 
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紀伊中ノ島駅から、東岸和田駅に向かう途中の「紀伊駅」で、停車中の車内から撮影したもの
です。
二本目の柱がそれです。
 
実は大阪寄りの各駅にも、そういった遺物が残されているという情報を得ました。
別の機会に訪問してみたいと思います。
 
今日はこんなところです。