しばらくぶりにアメブロのアプリを開いたら、広告が執拗にでるようになって煩わしい。特にゲームの広告が長いし消し方がよくわからなくて非常に使いづらくなっている。益々アメブロから遠ざかる原因になりそう。
それはさておき…今日の本題。
感じていることを言語化したくても私の語彙力では表現の限界があって、人に伝えることができないでいる。
寝ている間に見た夢を目覚めてからもはっきり覚えているのに、どう説明したら良いかわからない感覚に似ている。
アメリカにきてから11 年。
必死に生きてきたんだと思う。言語も文化も人種も違う環境に慣れるため、溶け込むために、この国や異文化、風習、流行りなどを学ぼう、吸収しよう、とスポンジになったつもりで生きてきた。まだまだ理解不能なこともう多々ある中、培った経験でそれなりに適応して日常生活を送っている。特にアメリカ人の義家族と密接に関わっているので、彼らの常識やしきたりへの理解は深まった。
日本で生活していた頃のことや働いていた頃のことを細かく思い出せなくなってきた。記憶に臨場感がなくなるにつれて、アメリカでの生活が長くなってきたことを実感する。
いま日常生活の中で何かを見たり聞いたり、匂いを嗅いで思い出すことは、すべてアメリカ生活での記憶。日本にいた頃の私がここにはいない感覚になる。だから、こちらでの生活を始めたばかりの頃は私が私じゃない感覚になって、アイデンティティ崩壊を経験した。
日本に行くと、日本にいた時の記憶や思い出がそこらじゅうにちりばっている。日本で生活していた私と再会する。
アメリカに戻ってくるとたちまち、アメリカの私に戻る。
娘との生活で日本に触れる機会が増えた。
童謡、アンパンマンやしまじろう、いないいないばあ、日本昔ばなし…青春時代によく聴いていたJ popを家の中で流すと、当時の記憶が蘇ってくる。アメリカにいるのに日本の私がひょっこり顔をだす機会が増えているのだ。
そうすると、日本の私とアメリカの私が同一人物であるのないのか混乱することがある。
私たちは彼の生まれ育った町に住んでいる。
赤ちゃん時代からの記憶と思い出が散らばっている。思い出話をしながらノスタルジーになる彼のことをたくさん見てきた。幼馴染の友だちに町中で遭遇することも頻繁だ。出会う前の彼のことは知らないけれど、彼はシェアしてくれる。彼が遊んだ公園に娘を連れて行く。小中高と彼が通った学校に娘も通うことになるだろう。
彼と出会う前の私のストーリーを彼にシェアする機会はほぼない。時折りするけど、臨場感に欠けるよね。
だから日本の私のことを、夫シーズは知らない。ということは、この人は私の半分以上を知らないってことなのか?
彼はよく、ここはアメリカだ、郷に入れば郷に従え的な発言をする。その度に、日本の私が否定された気分になる。私のルーツが剥奪された気分になる。
日本の文化にあまり興味を持たないってことは、この人は私のことを愛していないんじゃないか?という考えにまで発展している。孤独感さえわいているんだ。
日本の私とアメリカの私は同時に共存できるのだろうか。
娘のことは日本の私が育てている
これでいいのだろうか
娘には日本の私のことを知っていてほしい。
これは傲慢なのだろうか。
夫シーズにも、私の事をまるっと理解してほしいのかもしれない。たぶんだけど、これが私がいま抱えている欲求不満の核な気がする。

