銅版画特有の、緻密さと鉱物的玲瓏さ。
知的クールさと刻み込む一本一本の線の描き示す象徴性。
← 假標 / Straw Dummy / etching, aquatint / 19.5×12.0cm / 1954 (画像は、「ヒロ画廊 - アーティスト - 浜田知明 - 作品 」より)
浜田の作品を、単なるプロテストや人間拒否の、狭苦しい世界から救っているのは、彼の生来のものなのか、ある種の諧謔性や自己を客観視する目の存在だろう。
誰彼が悪いと指弾するとか、正義の立場で訴えるのではなく、突き詰めていくと、自分を含め、人類全体に共通して愚かしさと悲しさを強く自覚しないわけにはいかない。
暗い世界を暗く無表情(を装って)に、冷徹に描いているのだが、そこには人間を突き放したりしない、深い愛情が透けて見える。
→ 群盲 / A Group of the Blind / etching, aquatint / 29.1×29.5cm / 1960 (画像は、「ヒロ画廊 - アーティスト - 浜田知明 - 作品 」より)
人の愚かしさや悪辣さ、腹黒さは、よく見えるものである。
他人はみんな、何かしら企んでいて、人を陥れようとか、自分だけ助かろうとか、悲しいほどの悪足掻きをする。
その愚かしさが他人事ではなく、自分もそこからは決して逃れてはいない、否、所詮は自分も似たり寄ったりの愚かしく悲しく楽しくもある仲間であるという認識。
つまり、人間は、常に一つの観点や立場、思い込みからしか世の中を、人を見ることはできないのだという自覚。
← アレレ… / Oops! / etching, aquatint / 32.0×19.1cm / 1974 (画像は、「ヒロ画廊 - アーティスト - 浜田知明 - 作品 」より)
そうした、自分だって、愚かな悲しい人間の一人なのだよという気づきが、浜田作品の世界に救いと広がりをもたらしている。
ゴヤの「戦争の惨禍」を思わせる戦争と人間の記録性。と同時に、写実を超えた、ある種のルドンなどをふと連想させそうな、深い象徴性の域に至り、ついには、気を張って、意地を張って、芸術の極みを追い求めている孤高の人……のはずなのに、「アレレ…」なのである。
こんなはずじゃないのに、気が付いてみると、こんなものだったりする自分をまざまざと見せつけられ、芸術の高みで、いきなり梯子を外され、おりょ? となっている自分。
滑稽の極み。
→ 窓から-何もしてないよ (B) / From the Window "I haven't done anything". (B) / etching, aquatint / 24.4×19.5cm / 1994 (画像は、「ヒロ画廊 - アーティスト - 浜田知明 - 作品 」より)
かといって、真摯にある種の世界を追い求める営為が無意味だとか、こんなことはやめて、肩の荷を下ろして、みんな人間同士なんだよ…なんて、悟りきった世界に埋没することは許さない。
諧謔と滑稽を胸に蔵しながらも、そう、ひとには飄々とした姿しか見せないが、実は心身共にボロボロになりながらも、尽きせぬ何かを追い求める。
意味とか無意味とかをも超えて、楽しみつつ象徴性の高みを見つめ続ける。
それが浜田知明の世界なのだろう。