浜田知明の飄逸なるプロテスト(前編) | 無精庵徒然草

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無聊をかこつ生活に憧れてるので、タイトルが無聊庵にしたい…けど、当面は従前通り「無精庵徒然草」とします。なんでも日記サイトです。08年、富山に帰郷。富山情報が増える…はず。

 過日、NHKテレビ(教育)で浜田 知明(はまだ ちめい)の特集があった。:
版画家 彫刻家 浜田知明95歳のメッセージ|NHK 日曜美術館


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→ 初年兵哀歌 (歩哨)/ Elegy for a New Conscript: Sentinel / etching, aquatint / 23.8×16.2cm / 1954 「一度見たら忘れられない絵がある。みずからののど元に銃口を突きつけ、今まさに足で引き金を引こうとしている若い兵士。骸骨のような目から涙がこぼれ落ちる」(「版画家 彫刻家 浜田知明95歳のメッセージ|NHK 日曜美術館 」より) (画像は、「ヒロ画廊 - アーティスト - 浜田知明 - 作品 」より)


浜田知明 - Wikipedia 」によると、「浜田 知明(1917年(大正6年)12月23日- )は、日本の版画家・彫刻家。日本の版画家が国際的に注目されはじめたのは1950年代からであるが、浜田は、棟方志功、浜口陽三、駒井哲郎らと並び、第二次大戦後の日本を代表する版画家の一人に数えられる」人物。

 久々の出会いだった。
 暑い夏の真っ盛りの、一服の清涼ならぬ

 浜田の創作(制作)活動において、戦争体験が大きなエネルギー源になっている:
 

浜田が注目を集めるのは1951年(昭和26年)の自由美術家協会展に出品した銅版画『初年兵哀歌』シリーズからである。浜田の代名詞ともなっているこのシリーズは1954年にかけて計15点が制作された。中でも1954年作の『初年兵哀歌(歩哨)』は高い評価を得、1956年のルガノ国際版画ビエンナーレで受賞している。『初年兵哀歌(歩哨)』に描かれた初年兵は、銃を杖のように立て、薄暗い部屋に一人たたずんでいる。その半ば戯画化された表情はうつろであり、自分の顔に向けた銃の引き金を引くべきか迷っているようにも見え、戦争の悲哀と不条理を静かに告発している。

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← 初年兵哀歌 (銃架のかげ)
Elegy for a New Conscript: Under the Shadow of a Rifle Stand / etching, aquatint / 20.0×17.5cm/ 1951 (画像は、「ヒロ画廊 - アーティスト - 浜田知明 - 作品 」より)


「浜田は「冷たく、暗い、金属的な感じ」を求めた結果、技法的には一貫してエッチング(腐食銅版画)を主体に作成し、アクアチント(松やにを防蝕剤に使った銅版画の一種)を併用することもある。核戦争のような人間社会の不条理や人間心理の暗部といった深刻なテーマを、ブラックユーモアにくるんで表現している」という。
 実際、初期の頃の作品は、深刻な世界が暗い乾いたタッチで描かれている。
 同情や感傷など無用だ。そんなものはまるで通用しない、とばかりの厳しい姿勢。


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→ 初年兵哀歌 (風景) / Elegy for a New Conscript: Landscape / etching / 15.3×20.9cm / 1952 (画像は、「ヒロ画廊 - アーティスト - 浜田知明 - 作品 」より)


 この初年兵哀歌 (風景)は、まさに中国での戦争の悲惨さを物語るもの。実際の戦争はしていなくても、多くの(一部の?)日本兵は、食料調達などで、中国人の民家に押し入り、強制的に食料を調達している。強奪や暴行、強姦。


 この絵は、地に転がる、衣服を剥ぎ取られた女性の姿を一番、えげつない角度で描いている。


 しかし、戦争はえげつなさの極なのであり、日本兵は中国人に対し、暴力の限りを尽くしたのである。
 浜田は日本兵のおぞましい姿を散々見てきた。
 あるいは、人間性を剥奪された、剥き出しの人間を見てしまった。